四国自動車博物館

トライアンフ・サイクルマスター

トライアンフ・サイクルマスター:戦後復興期の大衆モビリティ

トライアンフの遺産:コヴェントリーの自転車から英国の象徴へ

創業者たち:ジークフリード・ベットマンとトライアンフの誕生

トライアンフの物語は、ドイツのニュルンベルク出身の移民、ジークフリード・ベットマンが1885年にロンドンでS. Bettmann & Co.を設立したことに始まる。当初、同社は他社製の自転車を輸入し、自社ブランド名で販売していた。普遍的で肯定的な響きを持つ「トライアンフ」という商標は1886年に登録された。
会社の転機は、同じくドイツ出身のモリッツ(モーリス)・シュルトがパートナーとして加わったことで訪れた。シュルトの推進により、同社は単なる輸入代理店から真の製造業者へと変貌を遂げ、1889年、英国自転車産業の中心地であったコヴェントリーに自社工場を設立した。

多角化と支配:モーターサイクル、自動車、そして戦時生産

トライアンフは動力付き交通機関への時代の潮流を鋭敏に察知し、1902年には自社の自転車フレームにベルギー製のミネルバエンジンを搭載した初のモーターサイクルを製造した。これは、自社の自転車プラットフォームを動力化するという初期の先例を示すものである。
同社の信頼性に対する評価は、第一次世界大戦中に決定的なものとなった。3万台以上の「トラスティ・トライアンフ(信頼のトライアンフ)」ことモデルHが連合軍に供給され、その頑丈さと信頼性により、トライアンフは1918年までに英国最大のモーターサイクルメーカーとなった。この軍事的な遺産は、ブランドの堅牢なイメージをさらに強固なものにした。その後、1920年代には自動車市場へも進出し、1930年には社名をトライアンフ・モーター・カンパニーと改称した。

分断された遺産:自転車部門の売却

1929年の世界恐慌は、トライアンフの財政に深刻な打撃を与えた。会社が存続するためには、事業の再編が不可欠であった。そして1932年、同社は創業の礎であった自転車部門を、競合であるラレー社に売却するという重大な決断を下した。
しかし、この物語はさらに複雑な経緯を辿る。その後、1939年に自転車部門はコヴェントリーのACM社に売却された。第二次世界大戦中のドイツ軍による爆撃で工場がほぼ壊滅した後、ACM社はトライアンフブランドを大手家電販売店のCurrys社へ売却。そして最終的に1954年、Currys社はその自転車ブランドをラレー社に売却したのである。
この一連の経緯が示す極めて重要な事実は、展示車両の1950年代製のトライアンフ自転車が、コヴェントリーのトライアンフ・モーター・カンパニーによって製造されたものではなく、ラレー社のノッティンガム工場で製造された製品であるということだ。ラレー社は、トライアンフという名前が持つ強力なブランド認知度を維持するために、その名を冠した自転車の生産を継続した。ラレー社は、トライアンフブランドが持つモーターサイクルとの関連性や、堅牢なエンジニアリングという遺産を巧みに活用したのである。これにより、「トライアンフ」ブランドの自転車は、単なるラレーブランドの自転車よりも「サイクルモーター」という新しい製品カテゴリーのプラットフォームとして、よりふさわしく、市場に訴求力のあるものとなった。その名前自体が、最終製品の魅力を構成する重要な要素だったのである。

サイクルマスター:民衆のためのエンジン

戦時中の起源:DKW「ラードマイスター」

サイクルマスターの設計は英国で生まれたものではない。その系譜は、第二次世界大戦前にドイツの自動車メーカーDKWが開発した、自己完結型の動力付き自転車ホイールの設計図にまで遡る。このプロジェクトは「ラードマイスター」(ドイツ語で「サイクルマスター」の意)と名付けられたが、戦争の勃発により生産されることはなかった。このDKWの設計自体も、1930年代のザックス・ザクソネッテを発展させたものであり、この分野における明確なドイツ工学の血統を示している。

オランダでの接続:設計図から「BeRiNi」へ

戦後、DKWの設計者ベルンハルト・ノイマンを含むドイツ人技術者の一団が、オランダの輸入業者HNG社で働くために派遣された。ノイマンはラードマイスターの設計図を携行していた。オランダ人設計者のリヌス・ブルインゼール、ニコ・グルーナーダイクと共にプロトタイプを製作したところ、オリジナルのホイール内蔵型設計はコストが高すぎ、整備も困難であることが判明した。そこで彼らは、設計を改変してエンジンを前輪の上部に搭載する新しい形式を秘密裏に開発し、それぞれの名前の最初の2文字を取って「BeRiNi」と名付けた。

英国のパワーホイール:インタープロ、EMI、そしてサイクルマスター社

当時、ドイツ人技術者たちは事実上の戦争捕虜であったため、オリジナルのホイール内蔵型モーターの設計図は、オランダの産業復興を支援するために設立された連合国の機関「インタープロ・ビューロー」によって接収された。インタープロは設計図を英国に送り、そこで「ラードマイスター」は「サイクルマスター」と英訳された。製造は、音楽や電子機器で有名でありながら、戦時中にレーダー機器の生産で広範な製造経験を積んだEMIファクトリーズ社に委託された。そして、この装置を市場に投入するため、新たにサイクルマスター社が設立された。サイクルマスターの物語は、戦後の産業界を象徴する縮図である。それは、戦争賠償の一形態として移転されたドイツの知的財産、オランダとドイツの技術協力、そして戦時生産から民生品へと転換した英国の電子機器メーカーが関与している。サイクルマスターは単なるエンジンではなく、戦後直後の複雑な地政学的・産業的変動が物理的に具現化したものなのである。

技術分析:オールインワン・パワーユニット

サイクルマスターの最大の特徴は、その統合された構造にあった。エンジン、燃料タンク、クラッチ、駆動チェーンのすべてが、特別に設計された後輪ハブ内に収められていたのである。
取り付けは驚くほど簡便で、所有者は既存の自転車の後輪をサイクルマスター・ホイールに交換し、ハンドルバーに操作系を取り付け、燃料ラインを接続するだけでよかった。この改造の容易さこそが、最大のセールスポイントであった。
エンジンは2ストローク単気筒で、当初は排気量25.7cc(黒色モデル)、1952年以降は32cc(シルバーグレーモデル)に増強された。小型ながら、当時としては高度なロータリーディスクバルブ吸気方式を採用しており、これがその驚くべき性能に貢献していた。ユニットにはクラッチが内蔵されており、ライダーはエンジンを切り離して通常通りペダルを漕いだり、信号で停止する際にエンジンを停止させずに済んだりした。

特徴モデル1 (1950-1951年)モデル2 (1952年以降)
エンジン排気量25.7cc32cc
カラースキーム黒地に赤ロゴポリクロマティック・グレーに赤リブ
ブレーキシステム標準自転車ブレーキオプションでコースターハブブレーキ内蔵
マグネトーWico-Pacy BantamagWipac Migemag(ライト用コイル付)
キャブレターAmal 308Amal 308 / BEC
最高出力(概算)0.6 bhp約0.8 bhp

モビリティの新時代:モペッドの社会的影響

戦後の至上命令:安価な交通手段への渇望

第二次世界大戦後の英国およびヨーロッパでは、公共交通機関はしばしば戦争による損傷を受け、不十分な状態にあった。一方で、自家用車や本格的なモーターサイクルは、一般市民にとっては法外に高価な存在だった。再建された工場への通勤や、日常の自由と正常な感覚を取り戻すために、個人的で手頃な価格、かつ燃費の良い交通手段に対する巨大な未充足需要が存在していた。

「モペッド」と「サイクルモーター」の台頭

サイクルマスターは、1950年代初頭の「サイクルモーター」ブームを代表する製品であった。このカテゴリーは、標準的な自転車に取り付ける後付けエンジンで構成されていた。これらの機械は、ヨーロッパ大陸から登場した一体型設計の車両とともに、「モペッド」(1952年にスウェーデンで「モーター」と「ペダル」を組み合わせて作られた造語)という新しい乗り物の概念を生み出した。これらは自転車ともモーターサイクルとも異なる、全く新しい車両クラスを形成した。これらの車両は通勤や買い物といった日常の用足しに十分な性能(時速25〜30km)を提供し、重要なギャップを埋めたのである。

「自由の機械」:社会的・文化的インパクト

何百万人もの人々にとって、モペッドは個人的な動力付き移動手段を初めて体験する機会となった。それは個人の行動範囲を劇的に拡大させ、より良い職を探し、社会生活を豊かにし、より多くの商品やサービスにアクセスすることを可能にした。この新たな移動の自由は、特に若者文化と女性の解放に大きな影響を与えた。イタリアにおけるベスパの影響と同様に、モペッドは若者が親の監督から逃れることを可能にし、また、ステップスルー形式の自転車フレームはスカートを履いたままでも乗りやすかったため、女性に新たな自立をもたらした。

一時代の終焉:競争と陳腐化

しかし、サイクルモーターの時代は短命に終わった。その成功は、より洗練された専用設計の車両が参入する市場を創り出してしまったのである。
ドイツのNSU Quicklyのような一体型モペッドや、ベスパやランブレッタといったスタイリッシュなイタリア製スクーターは、より優れた耐候性、快適性、そして性能を提供し、サイクルモーターの市場シェアを侵食し始めた。決定的な打撃となったのは1955年、英国政府が税法の抜け穴を塞ぎ、それまで自転車とは別個に販売されることで免除されていたサイクルモーターに25%の物品税を課したことである。これにより、価格面での主要な優位性が失われた。1950年代後半には需要は急落し、サイクルマスター社は1958年に任意整理に入り、1961年頃に生産は完全に停止した。

English

The "Triumph Cyclemaster" emerged in post-WWII Britain as an affordable mode of transport. Its design was based on the "Radmeister," a wheel-integrated engine originally developed by German automaker DKW. After the war, this technology was transferred to the UK as part of war reparations. EMI, an electronics and music company, was tasked with its production.

Renamed the "Cyclemaster," the unit's key feature was its all-in-one design, which integrated the engine, fuel tank, and clutch. It was incredibly easy to install; owners simply replaced their bicycle's rear wheel with the Cyclemaster, making it a hit with the public. Initially 25.7cc, the engine was later upgraded to 32cc, enabling speeds of 25-30 km/h.

Although Triumph's bicycle division was sold to Raleigh due to financial difficulties in 1932, the "Triumph Cyclemaster" was still produced in Raleigh's factory. The powerful brand image of Triumph as a motorcycle manufacturer with "robust engineering" was cleverly leveraged to market this new "cyclemotor" product, boosting its appeal.

During a time of inadequate public transport and expensive cars, mopeds dramatically expanded personal mobility. They provided freedom for commuting and daily life, greatly influencing youth culture and women's liberation.

However, the cyclemotor era was short-lived. Intense competition from more sophisticated, purpose-built mopeds (like the Vespa and NSU Quickly) emerged. The final blow came in 1955 when the British government imposed a 25% purchase tax on cyclemotors, eliminating their key price advantage. Demand plummeted, leading to the Cyclemaster company ceasing operations in 1958.

繁體字

二次大戰後的英國,出現了一種平價的交通工具「Triumph Cyclemaster」(勝利牌自行車引擎)。它的設計源自德國汽車製造商 DKW 所開發的一款名為「Radmeister」(自行車大師)的輪內式引擎。戰後,這項技術作為戰爭賠償的一部分被轉移至英國,並由以電子和音樂聞名的公司 EMI 負責生產。

這款引擎被重新命名為「Cyclemaster」,其最大特色是將引擎、油箱和離合器整合為一個單元。安裝過程非常簡單,車主只需將自行車的後輪換成 Cyclemaster,這一便利性使其廣受大眾歡迎。引擎最初排氣量為 25.7cc,後來升級至 32cc,最高時速可達 25-30 公里。

儘管 Triumph 由於財政困難已於 1932 年將其自行車部門賣給了 Raleigh 公司,但這款「Triumph Cyclemaster」仍舊是在 Raleigh 的工廠生產。Triumph 作為摩托車製造商「堅固耐用」的品牌形象被巧妙地運用在新產品「自行車引擎」上,極大地提升了市場吸引力。

在公共交通不便、汽車價格昂貴的時代,這種輕便摩托車極大地拓展了個人的活動範圍,為通勤和日常生活帶來了自由,對青年文化和女性解放產生了深遠影響。

然而,自行車引擎的時代是短暫的。隨著 Vespa 和 NSU Quickly 等更精密、專用設計的輕便摩托車出現,市場競爭日益激烈。決定性的打擊發生在 1955 年,英國政府對自行車引擎徵收 25% 的貨物稅,使其價格優勢盡失。需求因此暴跌,Cyclemaster 公司最終於 1958 年停止營運。