Norton COMMANDO
「アンアプローチブル(近づき難い)」:ノートン・コマンド
伝説の刻印:1世紀にわたるノートンの創意工夫
レーシング伝説の創世記
ノートンの物語は1898年、ジェームズ・ランズダウン・ノートン(通称「パパ」)がバーミンガムで二輪車業界向けの部品メーカーとして会社を設立したことに始まる。1902年には、外部から購入したクレメント社製エンジンを搭載した最初のモーターサイクル「エナージェット」を製造し、メーカーとしての歩みを始めた。
ノートンの名を世界に轟かせた決定的な瞬間は1907年に訪れる。この年、記念すべき第1回マン島TTレースが開催され、レム・ファウラーが駆るノートンが2気筒クラスで優勝を飾ったのだ。この世界で最も過酷と言われる公道レースでの成功は、「ノートン伝説」の始まりとなり、その名を高性能と信頼性の代名詞として瞬く間に世界に知らしめた。この成功を機に、ノートンは1908年から自社製エンジンの開発に着手し、名高い「ビッグ4」サイドバルブ単気筒エンジンなどを生み出し、技術的な独立性を高めていった。
栄光と責務:戦間期と第二次世界大戦
1930年代、ノートンはレース界で圧倒的な支配力を誇示する。1931年から1939年にかけて開催された9回のマン島シニアTTで7勝を挙げ、さらに1930年から1937年の間に参戦したグランプリレースでは、92戦中78勝という驚異的な戦績を残した。この時代、ノートンは世界のトップレーサーたちが選ぶマシンとしての地位を不動のものとした。
しかし、第二次世界大戦が勃発すると、ノートンはレース活動を中断し、連合国軍への貢献という責務を担うことになる。同社は頑丈な「モデル16H」を中心に、約10万台もの軍用モーターサイクルを供給。これはイギリス軍が使用した全モーターサイクルのほぼ4分の1に相当し、最も過酷な条件下での信頼性を証明するものだった。
フェザーベッド・フレーム:ハンドリングの完成を求めて
戦後、ノートンは再び技術革新の道を歩み始める。その象徴が、後にすべてのモーターサイクルのシャシー設計の基準となった「フェザーベッド・フレーム」の開発だ。このフレームは、理想的な重量剛性バランスを実現し、ノートンのマシンに比類なきハンドリング性能をもたらした。伝説的なマンクス・ノートン・レーサーの心臓部となったこのフレームは、しばしばエンジンの馬力不足を補って余りあるほどのコーナリング性能を発揮し、カスタムビルダーたちの垂涎の的となった。これは、後に登場するカフェレーサー文化の土壌を育む重要な要素となる。
ノートンのアイデンティティ危機とコマンドの萌芽
1960年代半ば、ノートンは深刻なジレンマに直面していた。同社のブランド・アイデンティティの中核であったフェザーベッド・フレームの卓越したハンドリング性能が、自社のエンジン開発によって根底から揺るがされていたからだ。市場はより大きなパワーを求めており、それに応える形で開発された750ccの並列2気筒エンジン「アトラス」は、強力である一方、その構造上、猛烈な振動を発生させた。この振動は、伝説的なフェザーベッド・フレームの許容量をはるかに超え、フレームに亀裂を生じさせるほどだった。
つまり、ノートンの二つの最大の資産であった「強力なエンジン」と「伝説的なハンドリングを持つフレーム」が、互いに両立不可能な関係に陥ってしまったのだ。エンジンのパワーを追求すればシャシーが耐えられず、フレームを維持しようとすればパワーを制限せざるを得ない。この技術的な行き詰まりは、ブランドの未来を脅かすものだった。コマンドは、単なる新型モデルとしてではなく、この根本的な矛盾を解決し、ブランドを救うための、まさに起死回生の革命的発想として生み出された。
コマンド:ラバーマウントの革命
アイソラスティックという解決策:猛獣の手懐け
ノートン・コマンドは1967年のアールズコート・モーターショーで発表され、世界初のプロダクション「スーパーバイク」としてセンセーションを巻き起こした。その核心技術が、後に「グライドライド」という名でも販売された画期的な「アイソラスティック・フレーム」だ。
このシステムは、エンジン、ギアボックス、スイングアームを一体のユニットとしてまとめ、特別に設計されたラバーブッシュを介してメインフレームに搭載するという独創的なものだった。これにより、並列2気筒エンジン特有の激しい振動がライダーや車体の主要部分に伝わるのを劇的に低減。ビッグツインの生々しいパワーと、それまで考えられなかったほどの滑らかで快適な乗り心地を両立させることに成功した。
もちろん、この革新には代償もあった。ラバーブッシュは消耗品であり、経年劣化するとハンドリングに不安定さ(特に高速コーナーでの「フィッシュテーリング」)をもたらすことがあった。そのため、初期モデルではシムを使った定期的なクリアランス調整が不可欠だった。この問題は、後のMk3モデルで、より調整が容易なバーニア式アジャスターが導入されたことで大幅に改善された。
パフォーマンスと個性
コマンドの心臓部であるOHV並列2気筒エンジンは、745cc(後に828cc)から生み出される強大なトルクと猛烈な加速で知られ、同時代のライバル車との性能比較では常にトップクラスの実力を誇った。しかし、その進化の道のりは平坦ではなかった。1972年に登場した高性能版の「コンバット」エンジンは、高いチューニングが施された結果、メインベアリングのトラブルが頻発し、信頼性に課題を残した。この経験を経て、1973年からはより堅牢で信頼性の高い850cc(正確には828cc)エンジンへと移行した。
興味深いことに、現代に蘇った961コマンドのレビューでは、ある程度の振動がバイクの「魅力」や「個性」の一部として肯定的に評価されている。この現代的な視点に立つと、大型バイクの激しい振動が当たり前だった時代に、初代コマンドのアイソラスティック・システムがどれほど革命的な乗り心地をもたらしたかが改めて浮き彫りになる。
あらゆるライダーのために:コマンド・ファミリー
ノートンは、コマンドという優れたプラットフォームを多様化させ、様々な市場の要求に応えた。以下に主要なモデルバリエーションを紹介する。
ファストバック (1968-1973): 流麗な一体型のFRP製テールセクションを持つ、スタイリッシュな初期モデル。
Sタイプ / ロードスター (1969/1970年〜): 独立したシートとタンクを持つ、よりオーソドックスなスタイル。「Sタイプ」はアップマフラーのスクランブラースタイル、「ロードスター」はダウンマフラーを備え、後に最も人気のあるモデルとなった。
インターステート (1972年〜): 大容量の燃料タンクを装備した長距離ツーリングモデル 。
ハイライダー (1971年〜): 高いエイプハンガーハンドルと特徴的なバナナシートを備え、アメリカのチョッパー市場を意識したモデル。
プロダクションレーサー (1970年〜): 「イエローペリル(黄色い悪魔)」の愛称で知られる、レース用の限定生産高性能モデル。
850 Mk3 (1975-1977): セルスターター、リアディスクブレーキ、米国規制に準拠した左側シフトチェンジ、そして改良されたバーニア式アイソラスティック調整機構を備えた最終進化形。重量は増したが、信頼性と洗練性が向上した。
表:ノートン・コマンド モデルの進化 (1968-1977)
モデル名 | 生産年 | エンジン | 主な特徴 |
---|---|---|---|
ファストバック | 1968-1973 | 750cc | 象徴的な一体型FRP製シート/テールユニットを持つ初期モデル。 |
Rタイプ | 1969 | 750cc | 米国市場向け。小型タンクと通常シートを持つストリートスクランブラー。 |
Sタイプ | 1969-1970 | 750cc | アップタイプの左出しマフラーとメタルフレーク塗装が特徴のスクランブラースタイル。 |
ロードスター | 1970-1977 | 750cc, 850cc | 最も人気のあったモデル。ダウンマフラーを備えたオーソドックスなスタイル。 |
プロダクションレーサー | 1970-1972 | 750cc | 「イエローペリル」として知られる、チューンされた手組みのレースモデル。 |
ハイライダー | 1971-1974 | 750cc, 850cc | 高いハンドルバーと段付きシートが特徴の「チョッパー」スタイル。 |
インターステート | 1972-1977 | 750cc, 850cc | 大容量燃料タンクを装備した長距離ツーリングモデル。 |
ジョン・プレイヤー・スペシャル | 1974 | 850cc | レース仕様のフルボディワークを備えた限定生産モデル。 |
850 Mk3 | 1975-1977 | 850cc | セルスターター、リアディスクブレーキ、バーニア式アイソラスティックを備えた最終進化形。 |
スピードの文化:コマンドとカフェレーサー
ロッカーズの誕生
第二次世界大戦後のイギリスは、ユニークな社会経済状況にあった。労働者階級の若者たちは、歴史上初めて自由に使えるお金を手にしたものの、その使い道となる娯楽は限られていまた。こうした背景から生まれたのが、「ロッカーズ」または「トン・アップ・ボーイズ」と呼ばれる若者たちのサブカルチャーだ。彼らはロックンロール音楽、映画『乱暴者(あばれもの)』に影響されたレザージャケット、そして主流社会への反抗的な態度によって自らを定義した。
彼らの聖地となったのが、ロンドンにある「エース・カフェ」をはじめとする深夜営業のトランスポート・カフェだった。1938年に開業し、1949年に再開したエース・カフェは、若きモーターサイクリストたちの社交の場となり、文化の中心地となったのだ。
カフェレーサーの精神:スピード、スタイル、そして「トン」
この文化の核にあったのは、スピードへの純粋な渇望、特に時速100マイル(約160km/h)―すなわち「トン」―への到達だった。カフェのジュークボックスでロックンロールのレコードをかけ、その曲が終わる前に決められたルートを往復するという「レコード・レース」の伝説は、彼らの価値観を象徴している。
この目的を達成するため、彼らは自らのバイクを徹底的に改造した。軽量化のために不要な部品はすべて取り払い、空気抵抗を減らすために低い「クリップオン」ハンドルと後退させた「バックステップ」を装着し、シートは一人乗りのレーシングスタイルに交換された。そのスタイルは、当時のグランプリ・レーサーを直接的に模倣したものであり、機能美の追求そのものだった。
「トライトン」が証明したコマンドの正当性
カフェレーサー文化が生み出した究極のカスタムバイクが「トライトン」だ。これは、当時のストリートにおける共通認識、すなわち「最高のハンドリングはノートンのフェザーベッド・フレーム、最高のエンジンはトライアンフのボンネビル」という評価を具現化したものだ。ライダーたちは、ノートン(Norton)のフレームにトライアンフ(Triumph)のエンジンを搭載することで、究極のパフォーマンスマシンを自らの手で創り上げたのだ。
トライトンの存在そのものが、市場からの強力なメッセージだった。それは、単一のメーカーから理想的なパッケージが提供されていないという事実の証明であり、パワフルなエンジンと優れたハンドリングを持つシャシーの組み合わせに対する明確な需要を示していた。そして、トライトンがストリートを席巻していたまさにその時代に登場したノートン・コマンドは、この需要に対するメーカーからの公式な回答だった。アイソラスティック・フレームによって飼いならされた強力なノートン製ツインエンジンと、洗練されたハンドリングを約束するシャシー。それは、カフェレーサーたちが自ら作り上げようと奮闘していた理想のバイクそのものだった。コマンドが発売と同時に絶大な人気を博したのは、それが偶然ではなく、時代の文化が求めていたマシンそのものであったからに他ならない。
伝説の遺産
最後の咆哮:ジョン・プレイヤー・ノートン時代
コマンドのレーシングキャリアの頂点は、タバコブランド「ジョン・プレイヤー」の象徴的な黒と金のカラーリングをまとったワークスレーサーの時代だ。この成功の立役者となったのが、ライダーであり、卓越したエンジニアでもあったピーター・ウィリアムズである。
彼の才能が最も輝いたのが1973年シーズンだ。ウィリアムズが自ら設計した革新的なセミ・モノコックフレームを持つレーサーは、空力とデザインが統合された工学的な傑作だ。そしてこのマシンを駆り、ウィリアリズは1973年のマン島TTフォーミュラ750クラスで劇的な勝利を飾る。この勝利は、台頭しつつあった日本製マルチシリンダーのパワーに対し、イギリスの独創的なエンジニアリングがもたらした勝利であり、クラシック・ノートン社にとって最後の偉大な栄光となった。
不滅のアイコン
ノートン・コマンドは、技術的な難題を解決し、「スーパーバイク」という新たなカテゴリーを定義し、そして反抗的な若者文化の精神を完璧に体現したモーターサイクルだった。それは、5年連続で「マシン・オブ・ザ・イヤー」に輝くほどの商業的成功を収めた、世界クラスの名車だ。しかし、その栄光の時代は、英国モーターサイクル産業全体の衰退期と重なる。コマンドは、業界の斜陽を食い止めることはできず、1977年に生産を終了した。
しかし、その伝説は色褪せることはない。ノートン・コマンドは、今なお世界で最も魅力的で象徴的なクラシックモーターサイクルの一つとして存在し続けている。それは英国工学の輝かしい象徴であり、世界中のカスタムビルダーやライダーたちに時代を超えたインスピレーションを与え続ける、不滅のアイコンなのだ。
"The Unapproachable": Norton Commando
Founded in 1898, Norton became synonymous with high-performance motorcycles after its victory in the inaugural Isle of Man TT race in 1907. Post-war, the company solidified its reputation with the development of the "Featherbed" frame, renowned for its unparalleled handling. However, in the 1960s, Norton faced a dilemma: the powerful "Atlas" engine, developed to meet market demands for more displacement, produced vibrations so intense they exceeded the Featherbed frame's limits. The company's two greatest assets--a powerful engine and a superior frame--had become incompatible.
To resolve this fundamental conflict, the Norton Commando was introduced in 1967. Its core innovation was the revolutionary "Isolastic" system, which mounted the engine and swingarm to the main frame via rubber bushes. This dramatically reduced the violent vibrations characteristic of a big twin, achieving what was previously thought impossible: a motorcycle that was both powerful and smooth to ride.
The Commando's arrival was the very ideal that the "café racer" youth culture of the era had been striving for. The "Triton," a custom bike built by enthusiasts combining a Norton frame with a Triumph engine to achieve the ultimate fusion of power and handling, was the street's answer to an unmet need. The Commando delivered this ideal package straight from the factory. It also achieved racing glory as the John Player Norton. Although production ceased in 1977 amid the decline of the British motorcycle industry, the Commando endures as an immortal icon of technological innovation and cultural significance.
繁體中文翻譯 (繁体字訳)
「難以親近」(The Unapproachable):諾頓Command
諾頓(Norton)創立於1898年,自1907年贏得首屆曼島TT大賽後,便成為高性能摩托車的代名詞。戰後,公司開發出以無與倫比的操控性而聞名的「羽毛床車架」(Featherbed frame),使其聲譽更加鞏固。然而,到了1960年代,諾頓面臨一個兩難困境:為滿足市場對更大排氣量的需求而開發的「Atlas」引擎,其產生的劇烈震動超出了車架的承受極限。公司最大的兩項資產----強大的引擎與卓越的車架----變得無法相容。
為了解決這個根本性的矛盾,諾頓Command於1967年應運而生。其核心是革命性的「隔振系統」(Isolastic system),該系統透過橡膠襯套將引擎與搖臂組件安裝在主車架上。這項設計極大地減少了大型並列雙缸引擎特有的劇烈震動,成功實現了前所未有的結合:既擁有強大動力,又兼具平穩舒適的騎乘體驗。
Command的問世,恰好體現了當時「咖啡賽車」(Cafe Racer)次文化青年們所追求的理想。他們藉由將諾頓車架與凱旋(Triumph)引擎結合,打造出名為「Triton」的改裝車,以追求「最佳引擎與最佳操控的融合」。而Command正是由原廠實現此一理想的完美之作。它也以「約翰·普萊爾·諾頓」(John Player Norton)之名在賽場上大放異彩。儘管在英國摩托車產業的衰退中,Command於1977年停產,但它作為技術革新與文化象徵,至今仍是不朽的經典。