四国自動車博物館

ISUZU 117coupe XT-L

流麗なるイタリアン・デザインと日本の生産技術が結実した「走る芸術品」

実用から美と個性の時代へ:ハイウェイ時代の幕開けとスペシャリティカーの胎動(1960年代後半)

1960年代後半、名神高速道路に続く東名高速道路の開通とともに、日本は本格的なハイウェイ時代へと突入した。それまでの国産乗用車市場は、大衆の移動手段や生活の足としての「ファミリーカー」の普及が最優先課題であり、実用性と経済性がクルマづくりの絶対的な尺度となっていた。しかし、高度経済成長の成熟と長距離高速移動の日常化に伴い、ドライバーの意識には劇的な変化が起こった。自動車は単なる実用の道具という枠組みを超え、個人のライフスタイルや審美眼、そして社会的ステータスを映し出す「パーソナルクーペ」としての役割を求められ始めたのである。

当時の日本市場において急速に高まっていたのは、欧州の自動車文化が育んできた「グランツーリスモ(GT)」思想への強い憧憬であった。大人4人が快適にキャビンに収まり、十分な荷物を積載して、大陸の高速道路を優雅かつ高速に駆け抜けるGTの美学は、「実用車の時代から、個性を走らせる時代へ」という歴史的転換点を象徴していた。この新しい欲求を誰よりも早く、そして最も純粋な形で具現化し、日本の自動車史に「走る芸術品」という不滅の金字塔を打ち立てたモデルこそ、いすゞ自動車が世に送り出した「117クーペ」である。

技術と美の矜持:商用車メーカーからの脱皮とジウジアーロとの邂逅(1965年〜1968年)

ジュネーブの衝撃:「ギア・いすゞ 117スポルト」の誕生

戦後日本の産業復興を支えるトラックやバス、そして卓越したディーゼルエンジン技術によって、「技術のいすゞ」としての確固たる名声を築いていた同社にとって、1960年代中盤における最大の経営課題は、乗用車市場におけるブランドイメージの刷新であった。商用車メーカーという堅実ながらも重厚な殻を破り、総合自動車メーカーとして飛躍するための象徴的なフラッグシップ(イメージリーダー)の創出が企図されたのである。

いすゞはこの野心的なプロジェクトにあたり、当時イタリアの名門カロッツェリア・ギア社にチーフデザイナーとして在籍していた若き天才、ジョルジェット・ジウジアーロにスタイリングの全てを託した。1965年にジウジアーロが手がけた流麗な4座クーペは、開発コードネーム「117」を冠したプロトタイプ「ギア・いすゞ 117スポルト(GHIA ISUZU 117 SPORT)」として、1966年3月のジュネーブ国際モーターショーで世界に初公開された。伸びやかなセミ・ファストバックのルーフライン、極限まで細く絞られたピラーと広大なグラスエリア、そして豊かな張りを湛えたフェンダーの曲面美は、欧州の並み居る名門スポーツカーのなかにあっても圧倒的な異彩を放ち、同ショーで最も魅力的な車両に贈られる「コンクール・デレガンス」を獲得する快挙を成し遂げた。

妥協なき市販化への決断と企業のプライド

ジュネーブでの絶賛を受け、いすゞは1966年6月に市販モデルの開発へと着手する。ショーモデルの流麗なプロポーションを一切損なうことなく、実用性確保のために室内高を30mm拡大するなどの緻密なリファインを施したプロトタイプ2号車は、同年10月の第13回東京モーターショーに「いすゞ 117スポーツ」として出品され、国内の自動車ファンに鮮烈な衝撃を与える。

通常、モーターショーを彩る華やかなコンセプトカーは、市販化の過程で生産効率やコストの壁に阻まれ、その鋭利な造形を大きく丸められてしまうのが常である。しかし、いすゞの上層部と技術陣には「この美しさをショーカーのままで終わらせない」という強烈な気概と技術者としての矜持が存在した。妥協なき美の追求を企業のプライドそのものと位置づけたいすゞは、2年間にわたる生産工程の徹底的な検討を経て、1968年12月、ギア社の開発コード番号をそのまま車名とした「117クーペ」の市販化へと踏み切ったのである。

13年間の軌跡:初期型・中期型・後期型に見る進化の系譜(1968年〜1981年)

1968年のデビューから1981年の生産終了に至る約13年間、117クーペは一度たりともフルモデルチェンジを行うことなく、ジウジアーロが授けた基本骨格を貫き通した。その長いライフサイクルは、製造方式と外観意匠、そして時代ごとの環境・安全要件への適応によって、「初期型(第1期)」「中期型(第2期)」「後期型(第3期/当館展示車両)」の3世代に明確に区分される。

区分初期型(ハンドメイド)中期型(丸目量産)後期型(角目量産/展示車両)
生産期間1968年12月〜1973年2月1973年3月〜1977年11月1977年12月〜1981年5月
車両型式PA90型(1.6L) / PA95型(1.8L)PA95型(1.8L)PA95型(1.8L) / PA96型(2.0L) / PAD96型(2.2L D)
外観特徴丸型4灯ヘッドライト、薄型クロームバンパー、手作業のステンレスモール、小型イタリア車風テールランプ丸型4灯ヘッドライト、量産化に伴うプレスライン微修正、流線型バンパー、グリル中央の唐獅子エンブレム、大型横長テールランプ規格型角型4灯ヘッドライト、大型ラバー(ウレタン)バンパー、小型チンスポイラー、黒色樹脂グリルおよびブラックアウト化された各部ガーニッシュ
生産方式職人による手作業・ハンダ仕上げ(月産約30〜50台)プレス機械による本格量産体制の確立(米GMとの資本提携による技術革新)完全量産体制の円熟・高品質化(日産数十台規模の安定した品質管理)
代表的機構国産量産車初の1.6L DOHC(G161W型:ソレックス2連装)、日本初の電子制御燃料噴射(ECGI:G161WE型)1.8L DOHC(G180WE型)およびSOHC(G180Z/E型)、ECGIの進化、51年排出ガス規制適合(EGR・酸化触媒等)昭和53年排ガス規制適合の2.0L「スターシリーズ」(G200型DOHC/SOHC)、ラグジュアリー仕様「XT-L」、世界初のディーゼル搭載クーペ(XD/XD-L)

世代ごとの変遷を辿ると、117クーペが単なる懐古的なクラシックカーとして時間を止めていたのではなく、オイルショックや世界一厳しいと称された日本の排出ガス規制、さらには北米市場の安全基準といった激動の1970年代の荒波に対し、常に最先端のエンジニアリングで立ち向かい続けた軌跡が浮かび上がる。初期型が国産量産乗用車初となる1,584ccのDOHCエンジン(G161W型:120ps)や日本初の電子制御燃料噴射装置(ECGI:130ps)によって技術的先進性を世に問うたのに対し、中期型では1,817cc(G180型)への排気量拡大を通じて140ps(昭和51年排出ガス規制適合後は130ps)へと動力性能を引き上げた。そして後期型においては、昭和53年排出ガス規制に伴う出力低下を補うため、1978年11月にシリンダーブロック肉厚の限界である1,949cc(G200型)へとさらなる排気量拡大を敢行し、これを「スターシリーズ」と命名して熟成の極みへと到達させたのである。

工芸から近代工業への昇華:美を制覇した生産技術と後期型の到達点(1971年〜1977年)

初期型の壁:職人の手作業とハンダが支えた3次元曲面

117クーペの歴史を語る上で欠かすことのできない最大のドラマは、ジウジアーロが描いた甘美なラインをいかにして工場の生産ラインに乗せるかという、日本の製造技術陣による格闘の記録である。とりわけルーフからリアピラー、そしてリアフェンダーへと滑り落ちるように絞り込まれる複雑な3次元曲面や、極端に細いピラーの造形は、1960年代後半当時の日本の大型プレス加工技術の限界を遥かに超えていた。通常のプレス機で一気に型抜きしようとすれば、鋼板が引っ張り応力に耐えきれず破断してしまうのである。

この壁を前にしたいすゞが選んだのは、デザインの妥協ではなく、人間の手技による突破であった。大まかなボディパネルのみをプレス機で成形し、各パネルの精密なトリミング、穴開け、溶接、そしてパネル継ぎ目の曲面出しに至る約7割の工程を、熟練職人の手作業に委ねたのである。いすゞはイタリアから板金職人を招いて技術指導を受け、職人がハンマーでボディを叩き出し、継ぎ目にハンダを盛り、ヤスリで平滑に削り出すという、さながらイタリアのカロッツェリアそのままの工程で初期型(通称「ハンドメイド」)を生産した。その結果、生産能力は月産わずか30〜50台にとどまり、大卒初任給が約3万円であった時代に172万円(同時期のスカイライン2000GT-Rやマツダ・コスモスポーツをも凌駕する)という価格となった。

量産化の壁:GM提携によるプレス金型技術の飛躍

どれほど美しいクルマであっても、月産数十台の手作業にとどまっていては、近代工業製品としての真の成功とは言えない。この膠着状態を打破する契機となったのが、1971年に結ばれた米国ゼネラルモーターズ(GM)との資本提携であった。GMとの技術交流と莫大な設備投資を背景に、いすゞの生産技術陣はプレス金型の設計・加工技術を飛躍的に進化させる。

そして1973年3月、わずかなプレスラインの微修正のみで、あの複雑極まりないジウジアーロの3次元曲面を大型プレス機で一気に抜き出す本格量産体制(中期型)がついに確立された。この時、フロントグリル中央には「いすゞ」の象徴である唐獅子のエンブレムが単独で配され、テールランプの大型化や三角窓開閉機構の汎用化、内装部品の成形合理化と相まって、車両価格の引き下げと供給力の大幅な拡大が実現したのである。

後期型の到達点:近代工業製品としての技術的完成形

1977年10月(発売は同年12月)、117クーペは最後のビッグマイナーチェンジを受け、当館に展示されている「後期型(第3期モデル)」へと進化を遂げた。そのエクステリアは、1966年のプロトタイプから不変である車体上部の繊細なイタリアン・プロポーションと、1977年の刷新で導入された車体下部の近代的な空力・安全エレメントが見事なコントラストを成している。キャビン周りに目を向ければ、極細のピラーと広大なガラスエリアがもたらす開放的なグリーンハウス、ボディとリアウィンドウ上端の境目にスマートに内蔵された室内気排出用のエアアウトレット、そしてかつて職人の手作業でしか再現できなかったリアフェンダーの優美な3次元曲面の絞り込みが、高度に熟成されたプレス金型技術によって寸分の狂いもなく量産再現されている。

一方で車体下部およびフロントマスクにおいては、それまでの丸型4灯に代わって規格型の角型4灯デュアルヘッドランプが採用されたことが外装における最大の変更となっている。さらに、北米市場における安全基準の厳格化や世界的な空力(エアロダイナミクス)トレンドを見据え、前後バンパーは衝撃吸収性に優れたラバー(ウレタン)被覆の大型デザインへと改められ、フロントノーズ下端には精悍な小型チンスポイラー(エアダム)が装着された。また、唐獅子エンブレムが収まるフロントグリルや各部のメッキガーニッシュを大胆にブラックアウト(黒色樹脂化)することで、1970年代後半から1980年代初頭のモダニズムに呼応する引き締まった佇まいを獲得している。

単なる外観の変更にとどまらず、後期型ではステアリング機構、ブレーキ系、ギヤシフト系にも徹底した改良が加えられ、実質的なフルモデルチェンジに匹敵する洗練が施された。ハンドメイドの初期型が職人の魂を宿した「工芸品」であるならば、この後期型は、日本の自動車生産技術がイタリアン・デザインの極致である「美」を完全に制覇し、日産数十台規模の安定した高品質管理と近代的な信頼性を両立させた「技術的完成形」と呼ぶにふさわしい存在である。

展示車両「XT-L」の真価:至高のスタイリングを日常で堪能する大人のグランドツアラー(1978年〜1981年)

グレード序列の変革と「スターシリーズ」の登場

後期型が登場した翌年の1978年11月(発売は12月)、117クーペは昭和53年排出ガス規制への適合を果たすと同時に、排ガス対策に伴う出力低下を補うため、エンジン排気量を従来の1.8L(1,817cc)から2.0L(1,949cc:G200型)へと拡大した「スターシリーズ(☆☆)」へと発展した。この際、車名に添えられた2つの星印(☆☆)は、新たな環境時代における性能と品格の両立を象徴するものであった。

この1978年の改良において、117クーペのグレード体系に大きな変更が施された。それまでの117クーペは、DOHC+ECGIを積む最高峰の「XE」を頂点とし、燃料噴射SOHCの「XC」、そしてシングルキャブレターSOHCの普及版「XT」に至るまで、エンジンの種別と内外装の装備水準が厳然たるヒエラルキー(序列)で縛られていた。しかし、ユーザー層の広がりと成熟に伴い、「高回転型のDOHCエンジンやハードなスポーツサスペンションまでは必要としないが、117クーペの美しいスタイリングと最高級の豪華な室内空間を、穏やかで扱いやすいエンジンで優雅に味わいたい」というニーズが顕在化したのである。

XEの豪華さとSOHCの柔軟性を融合した「XT-L」の設計思想

こうした大人のドライバーたちの声に応え、これまで比較的ベーシックな位置づけに甘んじていたシングルキャブレターSOHC車の最上位機種として1978年に新設されたグレードこそ、当館の展示車両である「XT-L」であった。グレード末尾の「L」は「Luxury(ラグジュアリー)」の頭文字を意味する。

XT-Lの最大の特徴は、その絶妙なパッケージングにある。心臓部には、最高出力115ps/5,400rpm、最大トルク16.0kgm/3,800rpmを発生するG200型1,949cc水冷直列4気筒SOHCシングルキャブレターエンジンを搭載し、市街地から高速道路まで気難しさの一切ないジェントルで柔軟なドライビングフィールを実現した。その一方で、エクステリアおよびインテリアの意匠や快適装備群は、DOHC最上級モデルの「XE」と完全に同等の仕様へと大幅にハイグレード化されていたのである。速度感応型パワーステアリングをはじめ、パワーウィンドウ、エアコンディショナーといった当時のいわゆる「三種の神器」や電磁ドアロックを網羅したXT-Lは、まさに「SOHCシングルキャブの心臓を持ったXE」と呼ぶべき贅沢な仕立てであった。

ハードな減衰力可変ダンパーやLSD(リミテッド・スリップ・デフ)を備えたスポーツグレードの「XG」がワインディングロードを攻めるための117クーペであったとすれば、この「XT-L」は、ジウジアーロの流麗なシルエットと上質なキャビンを日常のあらゆるシーンで堪能するための、最も洗練された「大人のグランドツアラー」であったと言える。

展示車両(いすゞ 117クーペ XT-L 後期型)主要諸元・後期型グレード体系

後期型(スターシリーズを含む1977年〜1981年モデル)における主要グレードの構成と、当館展示グレードである「XT-L(2000XT-L)」の基本仕様諸元は以下の通りである。

グレード名搭載エンジン型式・仕様総排気量最高出力 / 最大トルクグレードの位置づけと主な特徴
XE / XE-LimitedG200WE型 直列4気筒 DOHC + ECGI1,949cc135ps / 17.0kgmシリーズ最高峰のフラッグシップ。モケット(限定車は本革)シート、オートAC、速度感応型パワーステアリング等を装備
XGG200WE型 直列4気筒 DOHC + ECGI1,949cc135ps / 17.0kgm本格スポーツグレード(5速MTのみ)。減衰力可変ダンパー、4輪ディスク、LSD、本革巻ステアリング、リアワイパー標準装備
XC / XC-L / GiugiaroG200E型 直列4気筒 SOHC + ECGI1,949cc120ps / 16.5kgm電子制御燃料噴射SOHCを搭載する中核スペシャリスト。4輪ディスクやカセットデッキ等を装備し、最終期には電動サンルーフも設定
XT-L(当館展示車両)G200型 直列4気筒 SOHC + シングルキャブ1,949cc (※78年型は1,817cc)115ps / 16.0kgm (※1.8Lは105ps)SOHCキャブ仕様の最上位ラグジュアリーモデル。扱いやすい動力系に最上級車XEと同等の豪華内外装・パワーステアリング等を融合
XT / 1800XTG200型(2.0L) / G180型(1.8L) 直列4気筒 SOHC + シングルキャブ1,949cc / 1,817cc115ps / 16.0kgm(2.0L) 110ps / 15.5kgm(1.8L)117クーペの美しさを純粋かつ軽快に楽しむベーシックグレード
XD / XD-LC223型 直列4気筒 OHC ディーゼル2,238cc73ps / 14.2kgm1979年12月追加。世界初のディーゼルエンジン搭載スペシャリティクーペ。XD-LはXT-L同様にXE準拠の豪華装備を採用
項目いすゞ 117クーペ XT-L(後期型・スターシリーズ)仕様諸元
車両型式E-PA96型(1978年11月以降の2.0Lモデル) / C-PA95型(1978年式の1.8Lモデル)13
全長 × 全幅 × 全高4,310 mm × 1,600 mm × 1,310 mm
ホイールベース2,500 mm
車両重量約 1,090 kg 〜 1,120 kg(仕様・装備による)
乗車定員4名
駆動方式 / トランスミッションFR(後輪駆動) / 5速マニュアル または 3速オートマチック
サスペンション(前 / 後)ダブルウィッシュボーン・コイル / 半楕円リーフスプリング(リジッド)
ステアリング形式ボールスクリュー式(速度感応型パワーステアリング装備)
燃料タンク容量56 L
排出ガス浄化方式2次空気供給方式・EGR(排気ガス再循環方式)・酸化触媒コンバーター方式

日本におけるクーペ文化の嚆矢とピアッツァへの継承

スペシャリティカー百花繚乱の起爆剤とデザインDNAの継承

117クーペが日本の自動車産業とモータリゼーションに与えた影響は計り知れない。
第一に、1968年に117クーペが切り拓いた「流麗な4座パーソナルクーペ」という市場は、1970年に登場したトヨタ・セリカ(当館にも展示されている初代セリカ1600GT、通称「ダルマセリカ」)をはじめ、日産・シルビアなど、国産メーカー各社によるスペシャリティカー百花繚乱の時代を呼び起こす直接的な起爆剤となった。

第二に、海外の超一流工業デザイナーに白紙からスタイリングを委託し、その芸術的な意匠を一切損なうことなく日本の生産技術で量産化するという「国際共創」のパイオニアとなった点である。このいすゞとジウジアーロの深い信頼関係とデザインDNAは、1981年に117クーペの後継モデルとして登場した「いすゞ・ピアッツァ」へと鮮やかに継承された。ピアッツァもまた、ジウジアーロ率いるイタルデザインが1979年のジュネーブ・ショーで発表したコンセプトカー『アッソ・ディ・フィオーリ(Asso di Fiori)』をほぼそのままの姿で市販化したモデルであり、「妥協なき美を市販車として世に問う」という117クーペの精神そのものの結晶であった。

ロングライフデザインの尊さと美の民主化

1968年から1981年までの13年間に生産された117クーペの総数は約8万6千台(9万台弱)であり、大量生産・大量消費を競った当時の国産車の中にあっては、決して商業的な大ヒット作ではなかった。しかし、117クーペには「発売から10年間、ただの1台も廃車が出なかった」と語り継がれるほどの驚くべき逸話が残されている。それは、10年以上にわたって基本骨格を変えずに生産され続けたロングライフデザインが一切の陳腐化を拒絶し、手に入れたオーナーの誰もがその美しさに誇りを持ち、慈しむように維持し続けたことの何よりの証左であり、後に「日本自動車殿堂」の歴史遺産車に選出された理由でもある。

四国自動車博物館の館内を見渡せば、国産スーパーカーの金字塔である「トヨタ 2000GT」、そしてジウジアーロが1970年代後半に手がけたウェッジシェイプの傑作「ロータス・エスプリ」や「デロリアン DMC-12」といった歴史的名車たちが静かに佇んでいる。それらの名車たちと並び立つこの「いすゞ 117クーペ 」が物語っているのは、かつて一部の富裕層や特別なハンドメイド車だけの特権であった「イタリアン・デザインの極致」を、日本の生産技術陣が不屈の執念で近代工業製品へと昇華させ、多くのドライバーが日常の路上で楽しめるものへと開放した「美の民主化」の物語である。角型4灯の精悍なマスクと優美な曲面ボディが織りなすその佇まいは、日本の近代工業史が到達した一つの美しい頂点を、今なお雄弁に語りかけている。