四国自動車博物館

いすゞ117クーペ新規展示記念企画

曲線美からウェッジ・シェイプへ ― マエストロ・ジウジアーロの造形論

時代背景とパラダイムシフトの本質(1960年代後半〜1980年代)

1960年代後半から1980年代初頭にかけての自動車デザイン史は、職人的な手工業に根ざした「有機的な3次元曲面」から、工業的な合理性と未来志向の幾何学が融合した「平面と直線によるウェッジ・シェイプ(楔形)」へと劇的な構造転換を遂げた時代である。この歴史的パラダイムシフトの中心に立ち、自らの作風を根底から変革することで世界の自動車産業を牽引した人物こそ、20世紀を代表するインダストリアルデザイナー、ジョルジェット・ジウジアーロ(Giorgetto Giugiaro、1938年8月7日イタリア・ピエモンテ州ガレッシオ生まれ)にほかならない。

ジウジアーロの造形論がなぜ「優美な曲線」から「フォールデッド・ペーパー(折り紙細工)」と呼ばれる鋭利な平面構成へと移行したのかを理解するには、単なる美的トレンドの変遷ではなく、彼自身のキャリアにおける「カロッツェリア(伝統的工房)から独立系エンジニアリング・デザインスタジオへの脱皮」という文脈を紐解く必要がある。芸術家の家系に生まれたジウジアーロは、中学卒業後、昼間は美術高等学校で絵画を、夜間はフィアットの技術専門学校で機械製図などを学んだ。高校の卒業制作展にてフィアットの設計最高責任者であった名エンジニア、ダンテ・ジアコーザ(Dante Giacosa)に才能を見出されてフィアット特別車両デザイン部門へ入所。巨大メーカーの内部でパッケージングと工業生産の基礎を学んだ後、1959年には自らのスケッチを携えてヌッチオ・ベルトーネに直談判し、テスト課題としてアルファロメオのデザインを手がけたことを機にカロッツェリア・ベルトーネのチーフスタイリストへ抜擢された。さらに1965年末からはカロッツェリア・ギア(Ghia)に移籍し、マセラティ・ギブリ(1967年)やデ・トマソ・マングスタ(1967年)、そして「ギア・いすゞ117スポルト」(1966年)といった、官能的な曲面と伸びやかなプロポーションを持つ傑作を次々と世に送り出した。

しかし、ベルトーネやギアといった伝統的カロッツェリアでの成功の裏で、ジウジアーロはひとつの構造的な限界に直面していた。当時の自動車メーカーは部門間の縦割り意識が極めて強く、各部署が自らの自律性を固守していたため、外部のカロッツェリアが提案する美しいショーカーの造形は、量産メーカーの生産技術部門やコスト制約の前で大幅に妥協させられるか、あるいは「いすゞ117クーペ」の初期型が直面したように、当時のプレス加工技術の限界から手作業による板金・ハンダ修正を強いられるという深刻なジレンマを抱えていたのである。

この「スタイリングと生産技術の乖離」を根本から解決するため、当時29歳だったジウジアーロはギアを退社し、1968年2月13日、トリノ近郊のモンカリエーリにおいて、フィアット出身の熟練生産・ボディ設計エンジニアであるアルド・マントヴァーニを共同創業者に迎え、イタルデザイン(Italdesign)の母体となる「SIRP(Studi Italiani Realizzazione Prototipi S.p.A. / イタリア試作車製作株式会社、初期のスタジオ呼称はItal Styling)」を設立した。

イタルデザインの設立理念は、「デザイナーの天才的ひらめきと非順応主義に、エンジニアの実用主義と論理を加える」という、創造性と生産技術の統合にあった。マントヴァーニ率いるエンジニアリング部門が構想段階からデザインプロセスに並走し、実現可能性、構造強度、金型設計、さらには量産組立ラインの構築に至るまでを同時に検証する「サイマルテニアス・エンジニアリング(同時並行開発)」を世界で初めてビジネスモデル化したのである。創業初期に日本のスズキから受注したコンパクト4シーターやミニバンの研究、そして構想から組立ライン立ち上げまでを「AからZまで」一貫して手がけたアルファロメオ・アルファスッド(Alfasud)の成功は、イタルデザインが単なるスタイリング工房ではなく、世界の自動車メーカーに対する総合研究開発(R&D)機関であることを証明した。

この「デザインとエンジニアリングの融合」という視座に立つとき、1970年代にジウジアーロが主導した「フォールデッド・ペーパー(折り紙細工)」および「ウェッジ・シェイプ」の本質が鮮明に浮かび上がる。1968年のビッツァリーニ・マンタ、1969年のアルファロメオ・イグアナ、1970年のポルシェ・タピロ、そして1971年のマセラティ・ブーメランといった一連のコンセプトカーで極限まで先鋭化された平面と直線による造形は、決して奇をてらった視覚的パフォーマンスではなかった。工学的な観点から見れば、緩やかな複合曲面を廃して「平坦なパネル面」と「鋭い折り目(キャラクターライン)」で車体を構成することは、薄い鋼板や樹脂パネルに高い面剛性を与えつつ、プレス金型の構造やFRP成形プロセスを合理化し、さらには平面ガラスの採用による製造コスト低減や居住空間の最大化(1974年のフォルクスワーゲン・ゴルフや1975年のヒョンデ・ポニー、1980年のフィアット・パンダで結実)を可能にする極めて論理的な工業デザインの解だったのである。

イタルデザイン創設の日本人パートナー・宮川秀之と「日伊の架け橋」

さらに、イタルデザインの創設と発展、とりわけ本展の『いすゞ 117クーペ』をはじめとする日本車および日本の工業製品との深い関わりを語る上で決して欠かすことのできない人物が、ジウジアーロとマントヴァーニに並ぶもう一人の共同創業者・宮川秀之(みやかわ ひでゆき、1937年6月6日群馬県前橋市生まれ)である。

早稲田大学在学中の1960年(昭和35年)4月、宮川は友人と共に250ccのオートバイによる世界一周10万キロの旅に出発し、東南アジア、インド、パキスタン、中近東を経て、ローマ・オリンピック開催直前のイタリアへと到達した。同年11月、日本の自動車雑誌の依頼でトリノ・モーターショーを取材した宮川は、最先端のイタリアン・デザインを目の当たりにして当時の日本車のデザインの遅れを痛感し、「日本とイタリアを結びつけて日本の自動車デザインを進化させなければならない」という使命を確信する。同時に、そのトリノ・ショーの会場で日本語通訳を務めていた地元ランチア社役員の令嬢マリーザ・バッサーノと運命的な出会いを果たし、1962年に結婚してトリノに居を構えた。

創刊間もない『CARグラフィック(CG)』誌の特派員としてイタリア車の試乗記や欧州モーターショーのリポートを寄稿しながらイタリア自動車界の重鎮たちと深い信頼関係を築いた宮川は、ベルトーネ時代から親交のあった1歳年下のジウジアーロと日本の自動車メーカーを結びつけるコーディネーターとしての頭角を現していく。東洋工業の「マツダ・ルーチェ」(1966年)や、ギア移籍後のジウジアーロが手がけた「いすゞ 117クーペ」のプロジェクトは、まさに宮川とジウジアーロのタッグによって実現したものであった。

当時、ジウジアーロが在籍していたギアは経営が傾いて社内が混乱しており、落ち着いてデザインに専念できる環境ではなかったため、宮川はわずか1年4カ月でギアを去ることになったジウジアーロの独立を強く後押しした。こうして宮川はジウジアーロと共に1967年にイタルデザインの前身となる「イタル・スタイリング(Ital Styling)」を立ち上げ、翌1968年にはトリノで設計事務所を経営していたアルド・マントヴァーニを加えて3人で「イタルデザイン」を共同設立したのである。

設立当初から宮川が経営・国際窓口の中枢にいたからこそ、イタルデザインの記念すべき最初の仕事は日本のスズキから受注した軽商用車「スズキ・キャリイ」(1969年、前後対称という独創的なパッケージを提案)や「フロンテ・クーペ」となった。その後も宮川は「日伊自動車産業の架け橋」として、いすゞ(117クーペの量産化支援、および後のピアッツァの原型となった1979年アッソ・ディ・フィオーリ)、スズキ(キャリイ、フロンテ・クーペ、ワゴンR)、三菱(コルト・ギャラン、ミラージュ)、日産(マーチ、セドリック)、トヨタ(カローラ、アリスト)、富士重工(1991年スバル・アルシオーネSVX)、ホンダ(アコード)、ダイハツの軽自動車など、日本のほぼすべての主要メーカーとジウジアーロを結びつけ、日本車のデザインと工作機械・生産技術の国際化を飛躍的に推し進めた。さらに自動車にとどまらず、ニコンのカメラ(F3等)をはじめとする日本の工業製品とイタルデザインのコラボレーションが数多く生まれた背景にも、共同創業者・宮川秀之の存在が決定的な役割を果たしていたのである(宮川はその功績により、2006年・2007年にイタリア大統領から外国人最高栄誉である「グランデ・ウフィチャーレ」および「連帯の星」勲章を授与され、日本自動車殿堂入りを果たしている。)

生産技術とデザインのせめぎ合い ― 展示車両3台の概要

本企画展の「いすゞ 117クーペ」「ロータス・エスプリ(エスプリ・ターボ)」「デロリアン DMC-12」の3台は、ジウジアーロが1966年から1981年にかけて辿った造形思考の軌跡であると同時に、「スチール(鋼板)の複合曲面プレスと手作業板金」「ガラス繊維強化プラスチック(GRP)の真空樹脂注入成形(VARI)」「無塗装オーステナイト系ステンレス鋼(SS304)の平面プレス加工」という、3つの全く異なる素材・生産技術とデザインの格闘を記録した生きた産業遺産である。この造形的転換は車体のディメンションと生産規模にも明確な数値として表れており、1968年のいすゞ117クーペ(全高1,320 mm・全幅1,600 mm)から1976年のロータス・エスプリ(全高1,111 mm・全幅1,861 mm)、1981年のデロリアンDMC-12(全高1,140 mm・全幅1,857 mm)へと至る過程で、全高は約200 mm低下する一方、全幅は約260 mm拡大し、極端なロー&ワイドのプロポーションが確立された。また生産規模においても、初期ハンドメイドで2,458台に留まった117クーペが1973年3月の量産プレス化によって総計86,192台へと飛躍したのに対し、特殊複合材やステンレス外板を採用したエスプリやDMC-12は独自の成形プロセスに支えられたスペシャリティ生産となった。

いすゞ 117クーペ(1968年登場 / ギア在籍時の結実と生産技術の壁、そして量産プレス化への進化)

歴史的経緯:ジュネーブの栄光から東京モーターショーの熱狂へ

いすゞ 117クーペの原点は、1966年(昭和41年)3月のジュネーブ国際モーターショーに参考出品されたプロトタイプ「ギア・いすゞ117スポルト(Ghia Isuzu 117 Sport / 別名:アッソ・ディ・フィオーリ Asso di Fiori)」にある。当時カロッツェリア・ギアに在籍していた若きジウジアーロが描いたこの流麗な4座クーペは、ヨーロッパの目の肥えた批評家から「最も美しいクルマ」として絶賛を浴び、同ショーの「コンクール・デレガンス(Concours d'Élégance)」で優勝という快挙を成し遂げた。同年10月26日から11月8日にかけて東京・晴海で開催された第13回東京モーターショーに「いすゞ117スポーツ」として凱旋展示されると日本国内でも熱狂的な反響を呼び、いすゞ経営陣は「ショーカーのままで終わらせたくない」という強い気概のもと、開発コード番号「117」をそのまま車名に冠して市販化を決断した。

造形的特徴と人間工学的パッケージング

117クーペの造形における最大の白眉は、クーペでありながら大人4人が快適に寛げるキャビン空間と、極めて広いガラスエリアを極細のルーフピラーで支える開放的なファストバック・プロポーションの両立にある。当時のイタリアン・デザイン特有の豊かなボリューム感を持つフェンダーラインは、フロントからリアのクォーターピラーへと淀みなく流れ込み、サイドウィンドウからリアガラスへと繋がる曲面処理と絶妙な調和を見せている。また、ジウジアーロの師であるジアコーザ譲りの人間工学的配慮は室内にも貫かれており、クーペとしては異例なほど余裕のある後席空間には、左右独立の灰皿やリア用ヒーターダクトまでが標準装備されていた。

生産技術とのせめぎ合い:「ハンドメイド」2,458台の真実

しかし、ギアの熟練職人が一品物のショーカーとして作り上げた繊細な3次元複合曲面と極細ピラーの造形は、1960年代後半の日本の量産プレス加工技術にとっては再現不可能な領域にあった。大規模な自動プレス金型では、フェンダーからクォーターパネルへと回り込む微妙な曲率やシャープなエッジを一度に絞り出すことができなかったのである。

この壁を突破するため、いすゞはイタリアから熟練の板金職人を招いて技術指導を仰ぎ、生産工程の大部分を職人の手作業に委ねる「セミハンドメイド」方式での生産に踏み切った。大まかにプレスされたパネルを職人がハンマーで叩き出し、パネルの継ぎ目やキャラクターラインの稜線に大量のハンダ(鉛合金)を盛り付け、それをヤスリで1台ずつ削り出してチリ(パネル隙間)と面精度を仕上げるという、まさにカロッツェリアのコーチビルディングそのものの工程が日本の工場で再現されたのである。

この結果、1968年12月の発売当初、生産能力は月産わずか30〜50台が限界であった。大卒初任給が約3万円だった時代にあって、117クーペの販売価格は172万円(消費者物価指数換算で現代の約620万円相当)と、同時期の日産・スカイライン2000GT-Rやマツダ・コスモスポーツをも凌駕する超高級車となったが、それでも手作業のコストがかさみ「作れば作るだけ赤字を計上していた」と伝えられている。1973年3月にプレス技術の向上と設計変更によって量産プレス成形(中期型・丸目量産モデル:48,339台生産)へと切り替わるまでの約4年間に生産された初期型は、わずか2,458台(登録台数2,459台)に留まり、現在も「ハンドメイド」の通称で別格の価値を与えられている。

量産プレス化の達成と後期型(昭和52年〜56年・角目モデル)への進化

いすゞが直面していた生産技術と採算性の壁を打破する転機となったのが、米国ゼネラルモーターズ(GM)との提携であった。GMからの資金提供と最新の生産技術の導入により、いすゞは長年の課題であった117クーペのボディ外板の完全プレス成型とライン生産化に成功し、1973年(昭和48年)3月より「中期型(通称:丸目量産モデル)」へと移行した。量産プレス金型での成形性を確保するため、フロントグリルから横バーが廃され、バンパーやリアコンビネーションランプが大型化されるなどの設計変更が施されたものの、ジウジアーロが描いた流麗なファストバック・シルエットと極細ピラーの造形美は見事に維持され、丸目量産モデルだけで48,339台を販売する商業的成功を収めた。

さらに1977年(昭和52年)12月には、1970年代後半のモダンな直線基調のトレンドや安全基準への対応を取り入れた最大のマイナーチェンジが実施され、「後期型(最終期型)」へと進化した。外見上の最大の特徴は、ヘッドランプが従来の丸型4灯から精悍な「角型4灯(通称:角目)」へと変更された点にあり、バンパーにも上面のみにクロームメッキを施したプロテクテッドラバー(ラバークッション)が採用された。また内装においても、従来のクーラーからフルエアコンへの進化や前席フルリクライニング機構の採用など、グランドツーリングカーとしての快適装備が大幅に充実された。

この角目後期型は、1981年(昭和56年)5月に同じくジウジアーロがデザインしたウェッジ・シェイプの後継車『ピアッツァ(Piazza)』へバトンを託すまで3年5か月にわたって生産された。1968年の誕生から1981年まで実に13年間の長期生産を誇り、総生産台数は86,192台(統計により85,549台)を記録したが、発売開始から10年間で1台の廃車も出ず、10年経過時点で登録台数の98%が現役として稼働していたという驚異的な記録を残している。今回展示される昭和56年(1981年)製造の最終・後期型は、1966年に生まれた「手作業でしか作れなかったイタリアン・デザイン」を、日本のプレス技術が完全に克服して量産工業製品として成熟させた到達点であり、同時にフロントマスクの角目化によって「曲面美から直線・ウェッジの時代へ」と移り変わる過渡期の空気をまとった貴重な歴史的証人である。

ロータス・エスプリ / エスプリ・ターボ(1976年登場・1980年ターボ化 / イタルデザイン黄金期のウェッジと複合材成形)

歴史的経緯:「シルバー・カー」から市販スーパーカーへの昇華

1968年にイタルデザインを設立したジウジアーロが、1970年代の「フォールデッド・ペーパー(折り紙細工)」時代において最も純粋な形で市販車へと昇華させた代表作が、ロータス・エスプリである。その端緒は、ロータスの創業者コーリン・チャップマン(Colin Chapman)がヨーロッパの後継となる上級スポーツカーを模索する中、1972年11月のトリノ・モーターショーで発表されたイタルデザインのコンセプトカー(通称「Silver Car」)であった。当初チャップマンはこれを「ヨーロッパのシャシーを用いた単なるスタイリング習作」と称して公開したが、その衝撃的なウェッジ・シェイプが巻き起こした反響は大きく、すぐさま市販化プロジェクトへと移行した。その後、イタルデザインで製作された実走プロトタイプ「The Red Car(登録ナンバー:IDGG 01)」での開発テストを経て、1975年10月のパリ・モーターショーで正式発表され、1976年6月より初期型「シリーズ1(S1)」の生産が開始された。

造形的特徴:全高1,111 mmの幾何学美と平面ガラスの徹底

エスプリの造形は、1972年のショーカー「マセラティ・ブーメラン」などで提示された極鋭のウェッジ思想を、そのまま公道へと解き放ったものである。全長4,260 mm、全幅1,861 mmに対し、全高は実に1,111 mm(43.7インチ)という極端なロー&ワイド・プロポーションを誇る。ボディ表面から有機的な膨らみは完全に排除され、鋭利な直線と多角形の平面パネル(ポリゴナル・サーフェス)のみで構成されている。特筆すべきは、極端に寝かされたフロントウィンドウに至るまで「平面ガラス」の採用にこだわった点であり、ガラス面とボディパネルが段差なく連続することで、まさに1枚の硬質な紙を折り曲げて作ったかのような「フォールデッド・ペーパー」の緊張感を全方位から観察することができる。なお、S1はロータスの「軽量化による高性能」という哲学を体現し、スチール製バックボーンフレームに2.0リッターDOHC 16バルブのType 907エンジン(160 bhp)とシトロエン・SMやマセラティ・メラクと共通のシトロエン製C35型5速トランスアクスルをミッドシップ搭載し、車両重量900 kg〜1,006 kgという俊敏なパッケージを実現していた(リアコンビネーションランプにはフィアット・X1/9の部品を流用)。

生産技術との共鳴:VARI(真空補助樹脂注入)プロセスが実現した「ナイフエッジ」

いすゞ117クーペが「スチール・プレス技術と曲面の衝突」であったのに対し、ロータス・エスプリは「複合樹脂成形技術と直線デザインの幸福な結合」であった。もしエスプリの鋭利な折り目(ナイフエッジ)を鋼板プレスで量産しようとすれば、金型の摩耗やパネルの歪みが問題となったはずである。しかしロータスは、チャップマンが自身のグラスファイバー製ボート製造会社で培い、1974年のロータス・エリート(内装デザインはイタルデザインが担当)から導入したVARI(Vacuum-Assisted Resin Injection:真空補助樹脂注入)プロセスを用いてエスプリのFRP(ガラス繊維強化プラスチック / GRP)ボディを成形した。

従来の手積み(ハンドレイアップ)によるFRP成形が職人の手作業でガラス繊維と樹脂を積層していたのに対し、VARIプロセスは高精度な雄雌の金型を合わせ、真空圧を利用して樹脂を注入する手法である。エスプリのボディは上下2分割(アッパーハーフとロアハーフ)でVARI成形され、車体全周を貫く最も鋭い水平のキャラクターライン(パーティングライン)で上下を接着して一体化された。後に1987年のX180型でエスプリをリデザインしたピーター・スティーブンスが「VARIプロセスは、GRPがボート作りの材料ではなく、精密なエンジニアリング素材として扱えることを証明した」と回想した通り、ジウジアーロの鋭利な「折り紙」の稜線は、ロータスのVARI成形技術と出会うことで初めて、高い寸法精度と生産性を伴って具現化したのである。

ターボ化に伴うジウジアーロ自身の再設計(1980年 Essex Turbo / 1981年 Turbo Esprit)

さらに本展示車両である「エスプリ・ターボ」において極めて重要な鑑賞ポイントは、自然吸気モデルからターボモデルへの進化における空気力学と造形の統合である。1972年のオリジナル・ウェッジは空気抵抗係数 Cd値0.35という優れた数値を達成していたが、1970年代のオイルショック後の市場環境や高出力化の要請から、ロータスは4.0リッターV8計画(Project M71)に先立ち、2.2リッターDOHCターボエンジン(Type 910、最高出力218 PS)の開発を進めた。

ターボ化に伴う熱処理(冷却吸気と排熱)および超高速域でのダウンフォース確保のため、ロータスは1980年2月に登場した限定モデル「Essex Turbo Esprit(エセックス・ターボ・エスプリ)」および1981年4月デビューの量産型「Turbo Esprit(ターボ・エスプリ / S3世代)」にあたり、他ならぬジウジアーロ自身に空力・外装リスタイリング・パッケージの設計を依頼した。ジウジアーロはオリジナルの平面幾何学を崩すことなく、大型フロントエアダム、冷却ダクトを備えた深いサイドシルスカート、ドラッグを低減しつつ整流効果を高める大型リアスポイラー、そしてリアハッチガラスを覆う象徴的な「スラント・ルーバー(遮光・排熱スリット)」を統合デザインし、ウェッジ・シェイプにアグレッシブな機能美を付加したのである。

デロリアン DMC-12(1981年登場 / 直線美の集大成、ロータス骨格との血縁、難加工ステンレスの克服)

歴史的経緯:デトロイトの理想とイタリアの造形、イギリスの骨格

ゼネラルモーターズ(GM)の副社長(ポンティアック担当)を務めたジョン・ザッカリー・デロリアン(John Z. DeLorean)が、自らの理想とするスポーツカーを製造するため、1975年に米国ミシガン州デトロイトで設立したのがデロリアン・モーター・カンパニー(DMC)である。車名の「DMC-12」は当初目標とした販売価格12,000米ドルに由来する(1981年発売時の実際の小売価格は25,000ドル、AT仕様は+650ドルに達した)。デロリアンはスタイリングをイタルデザインのジウジアーロに託し、1976年3月に試作第1号車を完成させたが、量産化に向けた車体設計と生産技術の確立にあたり、コーリン・チャップマン率いるロータスに全面的なエンジニアリング支援を依頼した。こうして北アイルランド・ベルファスト郊外のダンマリー(Dunmurry)に新設された工場で、1981年1月21日に量産第1号車(VIN:BD000500)がラインオフした。

造形的特徴と「ロータス・エスプリ」との深い構造的血縁

DMC-12の最大の技術的見どころは、隣に並ぶロータス・エスプリと事実上の「骨格の兄弟車」であるという点にある。ロータスの開発陣は、DMCのチーフエンジニアであったビル・コリンズが当初構想していた樹脂構造を改め、エスプリで実績のあった二つのコア技術をDMC-12に移植した。第一の核心技術は「ダブルY型バックボーンフレーム」であり、エスプリのシャシーから直接派生した中央のボックス断面バックボーンと前後Y字型サブフレームからなるスチール製フレーム(防錆のためエポキシ樹脂コーティング処理)を採用し、フロントにダブルウィッシュボーン、リアにマルチリンク式独立懸架サスペンション(一部にロータス・エラン等の知見も応用)を組み合わせた。第二の核心技術は「VARI成形によるGRPアンダーボディ」であり、エスプリと同様にロータスのお家芸であるVARI(真空補助樹脂注入)プロセスで成形されたガラス繊維強化プラスチック(GRP)製のモノコック・アンダーボディをバックボーンフレーム上に固定し、そこに重厚なガルウィングドアを支持させたのである。

ただし、エンジンをドライバー背後のミッドシップに搭載したエスプリに対し、DMC-12はリアのY字フレーム後端にプジョー・ルノー・ボルボ共同開発の2,849 cc PRV型V6エンジンを搭載するリアエンジン(RR)レイアウトを採ったため、前後重量配分は35%:65%という独自のバランスとなった。その骨格の上に被せられたジウジアーロのボディは、全長4,216 mm、全幅1,857 mm、ドア閉時全高1,140 mm(ガルウィング開時は1,961 mm)という堂々たるロー&ワイド・プロポーションを持ち、エスプリよりもわずかに落ち着きのあるグランドツーリング的なマスバランスを実現している。

生産技術とのせめぎ合い:無塗装「SS304ステンレス鋼」のプレス亀裂とボンネットの変遷

DMC-12を自動車史上の特異点としているのが、GRP製アンダーボディの表面に非構造部材として固定された無塗装・ブラシ仕上げ(ヘアライン加工)のAISI 304(SS304)オーステナイト系ステンレス鋼板である(プロモーション用に24金メッキが施された3台を除き、全車がクリアコートすら持たない無塗装で出荷された)。

板金およびプレス工学の観点から見ると、SS304ステンレス鋼は自動車のボディパネルにとって悪夢のように加工が難しい素材である。一般的な自動車用冷間圧延鋼板がプレス金型内で滑らかに伸びて3次元曲面を形成するのに対し、冷間加工されたステンレス鋼は結晶格子内の転位(dislocation)が干渉し合って急激な加工硬化を起こしやすく、多方向への引き伸ばし(ストレッチ成形)に対して極めて脆い。さらにスプリングバック(成形後の跳ね返り)が大きく、金型や切断ダイスを激しく摩耗させる特性を持つ。

ジウジアーロがDMC-12において採用した「平坦なパネル面と、単一方向の折り曲げを基調とした直線的ウェッジ・シェイプ」は、まさにこの難加工材であるSS304ステンレスを破綻なくプレス成形するための必須条件であった。しかし、それでも生産現場ではデザインの理想とステンレスの物性が激しく衝突した。その決定的な証拠がフロントフード(ボンネット)の3段階にわたる仕様変更である。VIN 03200までの第1期(初期型)では、ジウジアーロのオリジナルデザインに基づき、フロントフードの左右両端にフェンダー接合部と平行な2本のプレス溝(アクセント・グルーヴ)が刻まれ、さらにトランクを開けずに給油できる鍵付きの給油フラップ(ガス・フラップ)が設けられていた。続く第2期(中期型)ではまず給油フラップが廃止されて左右2本のプレス溝のみが残され、最終的な第3期(後期型)ではついに左右のプレス溝(グルーヴ)も完全に廃止されてフラットなボンネットへと変更された。

この設計変更の理由は美観の変更ではなく、純粋に生産技術上の危機によるものだった。硬質なSS304ステンレス鋼板にシャープな溝(グルーヴ)をプレス成形する際、応力が集中してステンレス鋼板に「亀裂(クラック)」が頻発し、歩留まりが著しく悪化したのである。結果として、DMCは生産速度と信頼性を確保するためにジウジアーロが意図したボンネットのキャラクターラインを断念せざるを得なかった。1982年末の倒産までに生産された約8,583台〜9,200台(現在約6,500台が現存、後に1995年設立のテキサスDMCがNOS部品等を継承)のデロリアンに見られるボンネットの違いは、まさに「デザインと金属素材のせめぎ合い」を雄弁に物語る生き証人である。このように、いすゞ117クーペにおける手作業の鋼板叩き出しとハンダ盛りによる複合曲面構造から、ロータス・エスプリにおけるVARI成形FRPの上下接着によるナイフエッジ構造、そしてデロリアンDMC-12におけるロータス系ダブルY型フレームおよびGRP製アンダーボディの上に平面基調のSS304ステンレス外板を纏わせる3層構造へと至る断面構造の変遷は、外板素材と成形プロセスがいかにジウジアーロの造形進化を規定したかを明確に示している。

本企画の結び

本企画「曲線美からウェッジ・シェイプへ ― マエストロ・ジウジアーロの造形論」において、3台の展示車両を貫く最大のメッセージは、「優れたインダストリアルデザインとは、素材と生産技術の制約に対する最も美しい回答である」という点に集約される。

1960年代末の『いすゞ 117クーペ』が見せる官能的な曲面は、カロッツェリアの伝統美を極めた一方で、大量生産のプレス金型技術との間に激しい摩擦を生み、結果として日本の職人による「ハンドメイド(ハンダ盛りと手仕上げ)」という奇跡的な情熱によってのみ命を与えられた。その経験を糧にエンジニアと組んでイタルデザインを創設したジウジアーロは、1970年代の『ロータス・エスプリ』において、平面ガラスと鋭利な直線からなる「フォールデッド・ペーパー」を考案し、ロータスのVARI樹脂成形技術と結びつくことで、ショーカーの過激なウェッジ・シェイプをそのまま量産スポーツカーへと定着させた。そして1981年の『デロリアン DMC-12』では、エスプリのシャシーおよびFRP骨格のノウハウを継承しつつ、塗装すら拒む硬質なSS304ステンレス鋼板を平面構成によって飼い慣らし、永遠に錆びることのない直線美のモニュメントを完成させたのである。

ご来館いただいているお客様は、受付に置かれている鑑賞ガイドも併せてご覧頂き、ジウジアーロ・デザインを堪能していただきたい。