四国自動車博物館

FIAT Abarth 2000 SPORT SPIDER Ser.II

蠍の楔:アバルト 2000 スポルト・スパイダー SE010の決定版ヒストリー

I. ジャイアントキラーの誕生:SE010の誕生

1960年代半ば、アバルト&C.社は重大な転換期を迎えていた。創業者であるカルロ・アバルトは、フィアットの量産車をベースとしたチューニングキットや高性能エキゾーストシステムの製造で築き上げた名声を、さらに高次元の領域へと昇華させることを目指していた。彼の野心は、単なるチューナーの枠を超え、世界的なスポーツカーレース、特に小排気量クラスを席巻する純血のレーシングマシンを製造するコンストラクターへと進化することにあった。この戦略は、大手メーカーがしばしば見過ごすニッチな市場をターゲットとし、アバルトがレースの世界で蓄積してきた専門的な経験を最大限に活用するものだった。

この野心的な計画の集大成として登場したのが、社内コード「SE010」として知られるアバルト 2000 スポルト・スパイダーだ。このマシン開発は決して0から生まれたものではなかった。その設計思想は、1966年に登場し、1000ccクラスを席巻、同年のニュルブルクリンク500kmレースで勝利を飾ったアバルト 1000SP(SE04)といった、先行する成功モデルから得られた貴重な経験の直接的な進化形だった。SE010は、軽量なチューブラーフレームにパワフルなエンジンを搭載するという、成功した2シーター・スパイダーの基本概念を継承していた。

アバルトの技術的能力を飛躍的に向上させたのが、1960年にアルファロメオから移籍したマリオ・コルッチ技師の存在だ。コルッチは、鋼管(チューブラー)トレリスフレームのような先進的なソリューションを推進する人物であり、アバルトが純粋なレーシングカーメーカーへと変貌を遂げる上で極めて重要な役割を果たした。彼の最初の主要なプロジェクトの一つがミッドシップのスパイダーであり、これは後にアバルト社内の設計哲学における長年の議論の幕開けとなった。

アバルトのビジネスモデルは、競争力のあるマシンを「ジェントルマン・ドライバー」と呼ばれるプライベーターに販売することに大きく依存していた。ワークスチームが権威あるレースで収める輝かしい成功は、何よりの宣伝媒体となったからだ。SE010は、箱から出してすぐに勝てるパッケージとして構想された。軽量性、俊敏性、パワー、そしてスピードというアバルトの代名詞ともいえる組み合わせを高く評価する、経験豊富なドライバーたちにとって、それは非常に魅力的な選択肢だった。

SE010の開発を推進した重要な動機の一つに、このマシンをFIAのグループ4スポーツカーカテゴリーでホモロゲーション(公認)を取得するという野心的な計画があった。この公認を得るためには、最低25台の生産が義務付けられていた。この目標は1969年4月1日、FIAホモロゲーション番号252として見事に達成され、SE010はプロダクションレーサーとしての地位を確立した。この一連の流れは、アバルトが単なるチューニング専門工房から、世界クラスのレーシングカーを設計、製造、そして販売する本格的なコンストラクターへと戦略的に移行していく明確な道筋を示している。SE010は、その変革の象徴であり、頂点に立つ存在だった。

II. SE010の解剖学:技術的詳細の徹底分析

アバルト 2000 スポルト・スパイダー SE010は、その時代の最先端技術と独創的なアイデアが凝縮された工学的傑作だ。その革新的なシャシー、強力なエンジン、先進的なサスペンション、そして象徴的なボディワークは、すべてが勝利という唯一の目的のために設計されていた。

シャシー:軽量化の核心

SE010の骨格を成すのは、クロームモリブデン(クロモリ)鋼を使用したマルチチューブラー・スペースフレーム。この構造は、カルロ・アバルトとマリオ・コルッチ技師がその高い剛性と修理の容易さから特に好んだものだ。直径22mmのチューブで構成された鋼管フレーム単体の重量は、わずか38kgから39kgという驚異的な軽さを実現していた。

しかし、SE010の真の革新性はその補強方法にあった。大幅な重量増を伴わずにさらなる剛性を確保するため、フレームには二重にラミネートされたファイバーグラス製のパネルがリベット留めされ、さらに樹脂を含浸させたファイバーのストリップで接着された。これにより、セミモノコックに近い効果が生まれ、シャシー全体の重量をわずか47kgに抑えながら、極めて高いねじり剛性を達成した。

エンジン:Tipo 236 パワープラント

車両の心臓部には、アバルトが誇る自社製エンジン「Tipo 236」が搭載されていた。これは実績のあるユニットの進化版であり、フィアットの量産エンジンブロックをベースとしながらも、アバルトによって徹底的に手が加えられた1946ccの水冷直列4気筒エンジンだった。

その最大の特徴は、当時としては極めて先進的だった、1気筒あたり4バルブ(合計16バルブ)を持つDOHC(ダブル・オーバーヘッド・カムシャフト)シリンダーヘッドの採用にある。2基の巨大なウェーバー製58 DCO3 ツインチョーク・キャブレターから混合気を供給され、ドライサンプ方式の潤滑システムを備えたこのエンジンは、最高出力250馬力を毎分8,700回転という高回転域で発生させた。いくつかの資料では最高出力の発生回転数が8,000rpmと記載されており、これはチューニングの仕様によって若干の差異があったことを示唆している。

ドライブトレインとサスペンション

エンジンが生み出すパワーは、アバルト製タイプ139の5速マニュアルトランスミッションを介して後輪へと伝えられる。サスペンションは、フロントにはコンベンショナルながら効果的なダブルウィッシュボーン式が採用され、リアにはトレーリングアーム、リバースAアーム(ロワー)、そしてトップリンクを組み合わせた、当時としては洗練された構成が用いられた。また、前後両方にアンチロールバーが装備され、コーナリング時の安定性を高めていた。

ボディワークと空力:「クワトロ・ファリ」

ファイバーグラス製のボディワークは、それまでのアバルト車が持っていた丸みを帯びたデザインから完全に脱却し、1970年代のレーシングカーデザインを支配することになるウェッジシェイプ(楔形)を先取りしていた。

そのスタイリングを最も特徴づけていたのが、傾斜したフロントフェンダーに埋め込まれた4灯のヘッドライトであり、これにより「クワトロ・ファリ」(イタリア語で「4つのライト」の意)というニックネームが与えられた。フロントのインテーク中央には、あたかもナンバープレートのように「ABARTH」のロゴが配され、バックミラーに映った際の強烈な存在感を放っていた。

ウインドスクリーンを含むファイバーグラス製ボディ全体の重量はわずか50kgに過ぎず、これが超軽量シャシーと組み合わさることで、車両の乾燥重量はわずか575kgに抑えられた。この驚異的な軽さが、最高速度270km/hという卓越したパフォーマンスの源泉となったのだ。

シリーズIとシリーズIIの差異

1968年に生産された初期モデルは「シリーズI」と見なされている。1969年に導入された「シリーズII」では、リアのボディワークに重要な変更が加えられた。当初、後輪を完全に覆っていたリアカウルは、上面のみをカバーし、タイヤの後部が露出する、より近代的なデザインへと変更された。この変更は、フェラーリ 512Mやポルシェ 917Kといった同時代のライバルたちに見られた空力開発のトレンドを反映したものだった。

FIAT Abarth 2000 Sport Spider SE010 Ser.II - 詳細スペック

項目内容
社内コードSE010
生産年1968年~1969年
生産台数少なくとも50台
シャシークロームモリブデン鋼管スペースフレーム、FRPパネルによる補強
エンジンアバルト Tipo 236、水冷直列4気筒、DOHC、16バルブ
総排気量1946cc
ボア x ストローク88mm x 80mm
吸気システムウェーバー 58 DCO3 ツインチョーク・キャブレター ×2
最高出力250 hp @ 8,700 rpm
変速機5速マニュアル
駆動方式リアエンジン・後輪駆動(RR)
サスペンション前:ダブルウィッシュボーン / 後:トレーリングアーム、リバースAアーム、トップリンク
ブレーキ4輪ディスクブレーキ
乾燥重量575 kg
重量配分(ドライバー搭乗時)前38% / 後62%
寸法(全長 x 全幅 x 全高)3,850mm x 1,780mm x 970mm
ホイールベース2,085mm
最高速度約 270 km/h
FIAホモロゲーショングループ4(1969年4月1日取得)

III. アバルト-コルッチの難問:二つの哲学の物語

アバルト社のエンジニアリング文化を特徴づけるものとして、創業者カルロ・アバルトと天才技術者マリオ・コルッチとの間に存在した、興味深い設計思想上の対立が挙げられる。この対立は、SE010とその派生モデルの設計に直接的な影響を及ぼした。

核心にあった議論

ポルシェとの関係から影響を受けていたカルロ・アバルトは、リアアクスルの後方にエンジンを搭載する、いわゆる「アウトボード」レイアウトの熱心な信奉者だった。彼の哲学は、重量物を後輪のさらに後ろに置くことで、トラクションを最大化するというものだった。一方、チーフエンジニアのマリオ・コルッチは、より優れたバランスとハンドリング性能を提供すると信じられていた、近代的なミッドエンジン(「モトーレ・チェントラーレ」)レイアウトを強く推進していた。

アバルトの選択としてのSE010

SE010は、この議論におけるカルロ・アバルトの哲学が明確に勝利を収めたモデルだ。Tipo 236エンジンはリアアクスルの後方に縦置きされ、その結果、ドライバー搭乗時の前後重量配分は38:62という、顕著なリアヘビーとなった。これは、当時のスポーツプロトタイプとしては極めて異例な選択だった。

リアエンジンレイアウトの性能への影響

この特異なレイアウトは、特定の条件下で絶大な効果を発揮した。特に、ヨーロッパ各地で開催されていた、タイトなヘアピンカーブが連続するヒルクライムレースにおいて、この設計は戦略的なアドバンテージとなった。後輪にかかる絶大な荷重が、低速コーナーからの加速時にホイールスピンを抑制し、ドライバーがより早くスロットルを開けることを可能にした。

このマシンを駆ったアルトゥーロ・メルツァリオのような熟練ドライバーは、この生来のオーバーステア傾向を巧みに利用し、ツイスティなコースでマシンをピボットのように旋回させることができた。彼らにとって、このピーキーな特性は欠点ではなく、タイムを削るための武器だった。

ミッドシップの対抗馬(SE014/SE019)

しかし、SE010の登場でこの社内論争に終止符が打たれたわけではなかった。アバルトは、コルッチと彼の技術チームが主導するミッドシップの派生モデル、SE014およびSE019の開発を並行して続けた。1970年のムジェロGPのように、ワークスチームが同じレースに両方のタイプのマシンを投入することも珍しくなく、これは二つのコンセプトに対する社内での評価が継続的に行われていたことを明確に示している。

このアバルトとコルッチの設計上の二項対立は、決して優柔不断の表れではない。むしろ、それはアバルト独自の、そして非常に生産的な研究開発手法だったといえよう。このアプローチにより、アバルトは異なる特性を持つマシンを同時に開発し、戦場に応じて最適なツールを選択することができた。リアエンジンレイアウトを持つSE010は、そのユニークなトラクション性能がレースの勝敗を分けるヒルクライムやタイトなサーキットで無類の強さを発揮する「特殊兵器」となった。一方で、ミッドシップのSE014/SE019は、よりニュートラルなバランスが求められる高速サーキット向けに開発が進められた。この二元的な開発体制は、小規模なコンストラクターであったアバルトにとって、多様なモータースポーツ分野で勝利の可能性を最大化するための、極めてプラグマティックな戦略だった。社内の「競争」は弱さではなく、むしろ強さの源泉となっていたのだ。

IV. 勝利の統治:SE010の競技キャリア(1968年~1970年)

アバルト 2000 スポルト・スパイダー SE010の競技キャリアは、ヒルクライム、耐久レース、サーキットイベントの垣根を越え、圧倒的な成功の連続によって彩られている。

1968年:輝かしいデビューとヒルクライムの制圧

SE010の伝説は、1968年4月7日、フランスのアンピュ・ヒルクライムで幕を開けました。スイス人ドライバー、ペーター・シェッティの駆るSE010は、デビュー戦にもかかわらず圧倒的な速さを見せつけ、コースレコードを更新して総合優勝を飾った。

この衝撃的な勝利は、これから始まる快進撃の序章に過ぎない。SE010はヨーロッパ中のヒルクライムで連戦連勝を重ね、この分野における絶対的な覇権を確立した。主な勝利には以下のようなものがある。

スタッラヴェーナ-ボスコキエザヌオーヴァ(イタリア):ペーター・シェッティが勝利。

ボローニャ-パッソ・デッラ・ラティコーザ(イタリア):ヨハネス・オルトナー、ペーター・シェッティ、アルトゥーロ・メルツァリオが1-2-3フィニッシュを達成。

ボルツァーノ-メンドラ(イタリア):シェッティが1位、オルトナーが2位。

コッパ・チッタ・ディ・ヴォルテッラ(イタリア):ヨハネス・オルトナーが優勝。

1968年:ニュルブルクリンクでの耐久性の証明

SE010が単なるヒルクライム専用マシンであるという見方を払拭するため、アバルトチームは1968年9月4日、世界で最も過酷なサーキットの一つとして知られるニュルブルクリンクで開催された500km耐久レースに3台のSE010を投入した。

このイベントのために、マシンにはより排気量の小さい1.6リッターエンジンが搭載された。しかし、排気量のハンディキャップをものともせず、アバルトチームは歴史的な1-2-3フィニッシュという快挙を成し遂げる。ペーター・シェッティが総合優勝を飾り、チームメイトのヨハネス・オルトナーとアルトゥーロ・メルツァリオがそれに続いた。

1969年:続く成功とプライベーターの勝利

グループ4のホモロゲーション取得後、SE010はプライベーターの手にも渡るようになった。1969年4月27日、ジェントルマン・ドライバーのドメニコ・スコーラがピエーヴェ・サント・ステーファノ-パッソ・デッロ・スピーノ・ヒルクライムで勝利し、顧客による最初の勝利を記録した。

またワークスチームも成功を続ける。ヨーロピアン・ヒルクライム・チャンピオンシップの一戦である1969年のモンセニー・ヒルクライムでは、ヨハネス・オルトナーがSE010を駆って総合2位に入賞。彼を打ち負かしたのは、このレースのために特別に開発されたペーター・シェッティのフェラーリ 212Eだった。このレースでは、他のSE010も4位、5位、9位に入賞し、アバルト勢の層の厚さを見せつけた。

1970年:ヨーロピアン・マウンテン・チャンピオンシップの栄冠

SE010(およびその進化形であるSE014/SE019)は、1970年にその成功の頂点を極めまた。オーストリア人ドライバーのヨハネス・オルトナーが、アバルト 2000 スポルトを駆り、権威あるヨーロピアン・マウンテン・チャンピオンシップの年間総合チャンピオンに輝いた。これはアバルトにとって記念碑的な偉業だった。このシーズンは、モンセニー(マリオ・カゾーニ)やチェザーナ-セストリエーレ(アルトゥーロ・メルツァリオ)での勝利を含む、数々のアバルトの勝利によって特徴づけられた。

サーキットでの勝利

ヒルクライムでの支配的な強さに加え、SE010は伝統的なサーキットでもその真価を発揮した。イモラ500kmレースでクラス優勝を果たしたほか、公道を使用して行われる過酷なレース「グランプレミオ・ディ・ムジェッロ」では、ポルシェ 908やアルファロメオ ティーポ33といった、より大排気量で強力なライバルたちを打ち破り、見事な総合優勝を勝ち取った。

SE010のレースキャリアは、アバルトの戦略的な巧みさを示す好例である。彼らは、マシンのユニークな強みを活かして特定のニッチ(ヒルクライム)を完全に支配し、同時に、注目度の高い耐久レースやサーキットレースでその万能性を証明した。この二正面作戦の成功物語(ヒルクライムでの支配力と耐久レースでの信頼性)は、彼らがターゲットとしていたプライベーター市場にとって、この上なく魅力的な宣伝となったのだ。

主要イベント結果

イベント日付ドライバー結果
アンピュ・ヒルクライム1968年4月7日ペーター・シェッティ総合優勝(デビューウィン)
ニュルブルクリンク500km1968年9月4日シェッティ / オルトナー / メルツァリオ総合1-2-3位(1.6Lエンジン)
グランプレミオ・ディ・ムジェッロ1970年アルトゥーロ・メルツァリオ総合優勝
イモラ500km----クラス優勝
ヨーロピアン・マウンテン・チャンピオンシップ1970年シーズンヨハネス・オルトナー年間総合チャンピオン

V. 巨人たちの激突:アバルト 2000 対 世界

アバルト 2000 スポルト・スパイダーの真の偉大さを理解するためには、それが戦った時代の競争環境を分析することが不可欠です。ここでは、SE010の設計思想とスペックを、当時の主要なライバルであったフェラーリ ディーノ 206 S、そしてより大きなクラスのポルシェ 908と比較します。

アバルト SE010:「ジャイアントキラー」

アバルトは、小型で信じられないほど軽量な車体(575kg)に、高回転・高出力の直列4気筒エンジン(250hp)を搭載しました。その設計哲学は、俊敏性、機械的なシンプルさ、そして型破りなリアエンジンレイアウトがもたらすトラクション性能を最大限に活用することに集中していた。

フェラーリ ディーノ 206 S:「洗練の極み」

ディーノ 206 Sは、アバルトよりわずかに重いものの、依然として非常に軽量なマシン(乾燥重量580kg)だ。心臓部には、F2由来のより複雑でエキゾチックな2.0リッターV6エンジンを搭載し、約220hpを発生した。最適なバランスを求めてコンベンショナルなミッドシップレイアウトを採用し、ピエロ・ドローゴの手による官能的なボディワークは、それ自体が芸術品だ。2リッタークラス、特にヒルクライムにおいて、アバルトの直接的なライバルだった。

ポルシェ 908:「ヘビー級王者」

ポルシェ 908は全く異なるカテゴリーの怪物だった。3リッターのグループ6プロトタイプクラスに参戦し、パワフルな3.0リッター水平対向8気筒エンジンから350hpを絞り出した。アバルトよりも重量はあったが、世界スポーツカー選手権での総合優勝を狙うポルシェの主力兵器だった。アバルトがこのマシンと直接対決したのは、ムジェロの公道レースのような混走クラスのイベントに限られ、そこではアバルトの俊敏性がポルシェの圧倒的なパワーを凌駕する可能性があった。

この比較から浮かび上がるのは、アバルトが採用した非対称的な戦略だ。フェラーリは洗練されたV6エンジンとバランスの取れたミッドシップシャシーを追求し、ポルシェは巨大で複雑な水平対向8気筒エンジンで純粋なパワーを求めた。限られたリソースしか持たないアバルトは、彼らと正面から渡り合うのではなく、異なるアプローチを選択した。彼らは、信頼性の高い量産ブロックをベースにした、しかし徹底的にチューンされた4気筒エンジンにこだわり、その「シンプルさ」を補うために、シャシーの軽量化に執拗なまでに注力した。その結果、クラス最高レベルのパワーウェイトレシオを達成したのだ。さらに、論争の的となりながらも、ヒルクライムという特定の戦場においては戦術的な優位性をもたらすリアエンジンレイアウトを敢えて採用した。これは、モータースポーツにおける古典的な「非対称戦」だ。アバルトはポルシェやフェラーリを資金力やパワーで上回ることはできなかったため、彼らを出し抜くために、特定の任務に完璧に特化した「思考の武器」を創造した。

主要スペック比較

項目アバルト 2000 スポルト・スパイダー (SE010)フェラーリ ディーノ 206 Sポルシェ 908/02 スパイダー
エンジン形式2.0L 直列4気筒2.0L 65° V63.0L 水平対向8気筒
最高出力約 250 hp約 220 hp約 350 hp
レイアウトリアエンジンミッドエンジンミッドエンジン
乾燥重量約 575 kg約 580 kg約 600 kg
シャシー鋼管 / FRP鋼管鋼管
設計思想軽量、俊敏性、トラクションバランス、空力純粋なパワー、耐久性

VI. 蠍の毒針は続く:遺産、コンセプト、そして後継者

アバルト 2000 スポルト・スパイダー SE010の遺産は、1970年代のレースシーンに深く、そして広範囲に及んでいる。それは、息をのむほど美しいワンオフのコンセプトカーの礎となり、さらに重要なことに、成功を収めたオゼッラ・レーシングカーの遺伝的設計図となった。

ピニンファリーナ・スコルピオーネ・コンセプト(1969年)

1968年後半、アバルトはSE010のローリングシャシーを、伝説的なデザインハウスであるピニンファリーナに提供した。その結果生まれたのが、フィリッポ・サピーノによってデザインされた、過激なウェッジシェイプのコンセプトカー「アバルト 2000 スコルピオーネ」だ。1969年のブリュッセル・モーターショーで発表されたこの車は、キャノピー(天蓋)スタイルのコックピット、むき出しのリアエンジン、そして未来的なスタイリングを特徴としていた。エンジンはSE010のものをわずかにデチューンした220馬力仕様が搭載されていた。この唯一無二の傑作は、今日に至るまでウェッジデザイン時代の象徴として称賛されている。SE010のシャシーが、時代の最先端を行くショーカーのベースとして選ばれたという事実は、コルッチのエンジニアリングがいかに先進的であったかを物語っている。

フィアットによる買収とオゼッラ・コルセの誕生

1971年7月31日、カルロ・アバルトは自社をフィアットに売却した。フィアットの主な関心は、フィアット 131 アバルト・ラリーに代表されるラリープログラムであり、アバルトのスポーツプロトタイプ部門である「レパルト・コルセ」には興味を示さなかった。

この決定により、アバルトのスポーツカープログラムは消滅の危機に瀕した。しかし、その資産--マシン、スペアパーツ、技術者、そしてアルトゥーロ・メルツァリオのようなトップドライバー--は、元アバルトの従業員でありレーサーでもあったエンツォ・オゼッラによって引き継がれた。彼は自身のチーム「オゼッラ・スクアドラ・コルセ」を設立し、アバルトの魂を受け継ぐことになる。

アバルト-オゼッラ PA1におけるSE010のDNA

エンツォ・オゼッラは、アバルトで重要な役割を担っていたエンジニア、アントニオ・トマイーニと共に、次世代のスポーツプロトタイプの開発に直ちに着手した。その結果生まれたアバルト-オゼッラ PA1(1973年)は、アバルトのスポーツカーの直系の子孫だ。このマシンは、アバルト製2.0リッター4気筒エンジン(出力は約270~285馬力に向上)の発展型を搭載し、アバルトとトマイーニが先駆的に開発したセミモノコック構造(パネル補強されたスペースフレーム)の原理を踏襲したシャシーを採用していた。

この技術的な連続性は、即座に結果として現れた。アバルト-オゼッラチームは、アバルトの設計を発展させたSE-021で1972年のヨーロピアン2リッター・スポーツカー・チャンピオンシップを制覇し、アバルトの勝利のDNAが新しい名前の下で生き続けていることを証明したのだ。したがって、SE010はアバルトのスポーツカー物語の最終章ではなく、その優れたエンジニアリング哲学が生き残り、新しい名前の下でさらに繁栄することを保証した、重要な架け橋と見なすべきである。


specification
製造年 1968年 エンジン 16バルブ 4気筒 DOHC
排気量 / 圧縮比 1,946cc / 11:5 最大馬力 250bhp/8,700r.p.m
最大トルク 26.5mkg / 6,200r.p.m ギアボックス 5速
ホイールベース 2,085mm 全長*全幅*全高 3850mm*1780mm*970mm
最高時速 270km/h 乾燥重量 595kg
ENGLISH DESCRIPTION

The Abarth 2000 Sport Spider SE010 (Ser. II) debuted at the end of 1967 as a 2-liter sports prototype. A lightweight chromoly tubular space frame reinforced with FRP, together with roughly 50 kg of body panels, yielded a dry weight of 575 kg. The rear-mounted, longitudinal inline-four DOHC 16-valve "Tipo 236" (1,946 cc), with twin Weber 58 DCO3 carburetors and dry-sump lubrication, produced up to 250 hp at 8,700 rpm and drove the rear wheels via a 5-speed gearbox (RR layout). Weight distribution was 38:62 (front:rear). Its wedge profile and four-lamp "Quattro Fari" face are iconic; on Ser. II the rear cowl was revised. It earned FIA Group 4 homologation (No. 252) on April 1, 1969, and excelled in hillclimbs and endurance racing. At the 1968 Nürburgring 500 km, 1.6-liter versions swept 1-2-3; in 1970 Johannes Ortner won the European Hill Climb Championship overall. The car also embodied the design debate between rear-engine advocate Carlo Abarth and mid-engine proponent Mario Colucci, with its DNA carried into Pininfarina Scorpione and later Osella PA1/SE-021. Suspension: front double wishbones; rear trailing arms with reversed A-arm and top link; four-wheel discs. Top speed about 270 km/h. It won overall at the Mugello GP against larger-capacity rivals, proving versatility from mountain sprints to long endurance--an era-defining "giant-killer."

中文說明 (Traditional Chinese)

阿巴斯 Abarth 2000 Sport Spider SE010(Ser. II) 於1967年末登場,屬2公升級運動原型車。採用輕量化鉻鉬鋼管空間車架並以FRP補強,配合約50 kg車身外板,實現乾重575 kg。後置縱向直列四缸 DOHC 16汽門「Tipo 236」(1,946 c.c.),搭配雙 Weber 58 DCO3 化油器與乾式油底殼潤滑,在8,700 rpm 可輸出最高 250 hp,透過5速手排驅動後輪(RR 佈局)。前後配重為 38:62。楔形外觀與四燈「Quattro Fari」前臉極具象徵性;Ser. II 改良後尾罩造型。1969年4月1日取得 FIA Group 4(No. 252)認證,在爬山賽與耐久賽皆有出色表現。1968年紐柏林500公里賽以1.6公升版本包辦1-2-3;1970年約翰尼斯・奧特納奪得歐洲爬山錦標總冠軍。此車亦凝聚創辦人卡洛(後置派)與總工程師馬里奧・科魯奇(中置派)的設計爭論,其 DNA 延續至 Pininfarina Scorpione 與後來的 Osella PA1/SE-021。懸吊:前雙A臂;後拖曳臂+反A臂+上連桿;四輪碟煞。極速約270 km/h。於穆杰羅 GP 擊敗大排量勁敵奪下總冠軍,展現從山道短賽到長距離耐久皆能應對的多面性----當代的「巨人殺手」。