ABARTH RECORD MONZA LM /Bialbero
韋駄天の蠍:アバルト・レコルト・モンツァ 栄光の軌跡
チュリンの錬金術師 ― アバルト&C.の創世記
人物とサソリの紋章
1908年、オーストリア=ハンガリー帝国時代のウィーンに生まれたカール・アルベルト・アバルトは、後にイタリアに帰化し、カルロ・アバルトとしてその名を世界に轟かせることになる。彼は情熱的なエンジニアであると同時に、5度のヨーロッパチャンピオンに輝いた才能あるモーターサイクルレーサーでもあった。このレース経験が、彼のマシン作りに「速さ」という絶対的な価値観を植え付けた。
1949年3月31日、アバルトはアルマンド・スカリアリーニの資金援助を得て「アバルト&C.」を設立する。会社のロゴに選ばれたのは、自身の星座であるサソリ(スコルピオ)であった。この選択には3つの理由があった。第一に自身の誕生月の星座であること、第二に偽造が困難であること、そして最も重要な第三の理由として、彼の哲学「小さくとも、猛毒を持つ(small but mean)」を完璧に体現するシンボルであったことだ。
彼の独立は、ピエロ・ドゥシオとフェリー・ポルシェと共に参画したチシタリア社の経営破綻が直接的な契機となった。チシタリアの資産を引き継いだアバルトは、それらを即座に「アバルト」ブランドのマシンへと転生させ、最初のレーシングチーム「スクアドラ・アバルト」を組織したのである。
エグゾーストから帝国の礎へ
アバルト社の初期の事業は、高性能なエグゾーストシステムの製造・販売であった。主にフィアット車向けに開発されたこれらの製品は、性能向上と官能的なサウンドで評判を呼び、ブランドの名声を確立すると同時に、彼の壮大なレース活動を支える強固な財政基盤となった。
事業が軌道に乗ると、アバルトは次なる戦略的転換を図る。それは、1955年に発表された大衆車フィアット600をベースとしたチューニングキットの販売である。これにより、誰もが手頃な価格で高性能を手に入れられるようになり、「アバルト」の名は一般の自動車愛好家にも広く浸透した。
フィアットとの関係は、単なる部品供給元と顧客という関係を超えた、共生関係へと発展していく。フィアットはアバルトに未完成の車両を供給し、アバルトがそれを高性能マシンへと昇華させた。後年、フィアットはアバルト製マシンがレースで勝利するごとに報奨金を支払う契約を結び、1971年の正式な買収以前から、アバルトは事実上のフィアット・ワークスチームとしての役割を担っていた。
このビジネスモデル全体が、既存の安価なプラットフォームを最大限に活用して世界レベルの性能を持つマシンを創造するという、カルロ・アバルトの卓越した手腕を物語っている。それは単なるチューニングではなく、軽量化、空力効率の追求、そして最小の排気量から最大のポテンシャルを引き出すという包括的な哲学であった。資源の乏しい戦後のイタリアにおいて、大衆車をベースにするという手法はまさに天才的な着想であり、フェラーリのような大排気量主義とは対照的な、創意工夫をブランドアイデンティティとする道を切り拓いた。レコルト・モンツァLMは、この哲学の究極的な表現であり、最も謙虚な出自のメカニズムを、世界で最も過酷なレースの舞台へと引き上げたのである。
ザガートとの提携:高速走行を支える軽量なフォルム
話を、フィアット600に戻そう。レース専用車両を開発するため、アバルトはカロッツェリア・ザガートにボディ換装を依頼した。その結果、1956年のジュネーブ・モーターショーで最初の「フィアット・アバルト750 GTザガート」がデビューした。ザガートは、軽量で空力的に優れたアルミニウムボディの製作を専門としており、その技術はこのプロジェクトに不可欠だった。
ザガートが手掛けた軽量アルミニウムボディは、美しさだけでなく、機能的にも優れていた。重量を削減し、空気抵抗を低減することは、小排気量車がより大きなライバルと競う上で最も重要なことだった。初期モデルでは、低いルーフラインの中でヘッドルームを確保するために、座席の上のルーフを二つのこぶ状に膨らませた象徴的な「ダブルバブル」デザインが採用された。後のレコルト・モンツァ・モデルでは、この特徴的なデザインに代わり、より滑らかな標準ルーフが採用されている。
アバルトとザガートの協力関係は、プロジェクトの成功に不可欠だった。アバルトが心臓部を提供し、ザガートが空力的に洗練された軽量ボディを提供するという分業体制は、まさに理想的な組み合わせだった。この強力なエンジンと最小限の重量(乾燥重量540~570 kg)のシャシーの組み合わせこそが、この車の競争力の核心であり、より大きくパワフルなライバルをハンドリングで凌駕し、時には速さでも上回ることを可能にしたのだ。この三位一体のビジネスモデルは、アバルトが専門メーカーの予算で大手メーカーのように振る舞うことを可能にした。フェラーリやマセラティのようにエキゾチックな外観を持ちながら、より参入しやすいクラスで競争できる車を提供することで、彼の主要な顧客基盤である「ジェントルマン・レーサー」に直接アピールしたのだ。
「レコルト・モンツァ」の名声:耐久レースから生まれた伝説
「レコルト・モンツァ」という名称は、1958年に、アウトドローモ・ディ・モンツァで達成された一連の驚異的な耐久記録を記念して採用された。これは巧みなマーケティング戦略だった。
この伝説の礎となったのは、1957年7月に行われた記録挑戦だ。この挑戦のためにピニンファリーナがデザインした流線型のボディと747ccのアバルトエンジンを搭載した特別なマシンが用意された。このマシンはモンツァ・サーキットを4日間走り続け、72時間連続走行で平均時速165.376 km/hという記録を含む、15もの新記録を樹立した。さらにその前年、1956年6月にも、マリオ・ポルトロニエリやアルフォンソ・ティーレといったドライバーが駆るベルトーネ製ボディのマシンが、モンツァで複数の記録を打ち立てている。
「ビアルベーロ」の心臓部:小排気量エンジニアリングの傑作
レコルト・モンツァに搭載された究極のエンジンは、747ccエンジンの「ビアルベーロ」(ツインカム)DOHCバージョンだ。このエンジンは、伝説的なエンジニアであるジョアッキーノ・コロンボによって設計され、2基のウェーバー製ツインチョークキャブレターと高圧縮比(9.7:1)を特徴とし、7,000 rpmで57馬力を発生させた。これは、シングルカムのプッシュロッドエンジンが発生する44〜47馬力と比べると大幅な性能向上だった。ビアルベーロエンジンを搭載した車両の最高速度は、時速180〜190 kmに達した。
ビアルベーロエンジンは、このモデルの技術的頂点だった。それは、単なるチューニングをはるかに超えた高度なエンジニアリングを必要とする、小排気量から驚異的な比出力を引き出すアバルトの能力を象徴していた。このエンジンは、レコルト・モンツァを巧妙な特別仕様車から、そのカテゴリーを支配することができる真の世界クラスの競技車両へと昇華させたのだ。
「LM」の称号
「LM」という称号は、特にル・マン24時間レースに参戦するために開発されたバリエーションを指す。これらのLMバージョンの仕様は、標準的なビアルベーロとは一線を画している。747ccのビアルベーロエンジンは84馬力を発生させ、最高速度は時速200kmに達した。これは、標準的なビアルベーロエンジンで一般的に引用される57馬力という数値を大幅に上回る。この出力の違いは、「LM」が顧客に販売されたバージョンとは異なる、完全なレース仕様のチューニングが施されたファクトリー製のスペシャルマシンであったことを示唆し、アバルトがル・マンに懸けていた並々ならぬ意気込みを物語っている。
仕様 | 標準ビアルベーロ | LMバリアント |
---|---|---|
エンジン形式 | DOHC 直列4気筒 | DOHC 直列4気筒 |
排気量 | 747 cc | 747 cc |
キャブレター | 2 x ウェーバー ツインチョーク | 2 x ウェーバー ツインチョーク |
最高出力 | 57 hp @ 7,000 rpm | 84 bhp @ 7,000 rpm |
最高速度 | 約 180-190 km/h | 200 km/h |
乾燥重量 | 約 540-570 kg | 不明 |
コーチビルダー | ザガート | ザガート |
国際舞台での証明された勝利
最大の功績:1959年セブリング12時間レース
1959年におけるレコルト・モンツァの最も重要な勝利は、セブリング12時間レースだ。このレースには、米国代理店であるフランクリン・D・ルーズベルト・ジュニア率いる「チーム・ルーズベルト」から、アバルトファクトリーの全面的な支援を受けた4台のマシンがエントリーした。彼らはGT750クラスで見事な1-2-3-4フィニッシュを達成し、その実力を世界に知らしめた。
この勝利は、単なるレース結果以上の戦略的な意味を持っていた。アバルトのビジネスは車とチューニングキットを販売することであり、広大で収益性の高いアメリカ市場を攻略することは極めて重要だった。そのための最も効果的な方法は、アメリカの著名なレースで勝利することだった。セブリング12時間レースは、当時のアメリカで最も権威のある耐久レースであり、ここで成功を収めることは絶大な宣伝効果をもたらした。
フランクリン・D・ルーズベルト・ジュニアという知名度の高いアメリカ人チームオーナーとの提携は、現地での信頼を勝ち得た。アバルトは「完全なファクトリーサポート」を提供し、ファクトリーのテストドライバーであるマリオ・ポルトロニエリやアルフォンソ・ティーレを送り込むことで、マシンが最高の状態でレースに臨めるよう万全を期したのだ。
その結果は完璧だった。1-2-3-4というクラス独占は、見出しを飾るのに十分なインパクトを持ち、「アメリカのプレスで大々的に取り上げられ」た。これにより、「ジャイアントキラー」としてのアバルトの評価はアメリカ市場で一気に高まり、販売を促進した。これは、「日曜に勝ち、月曜に売る」という哲学を国際的なスケールで実行した典型的な例だった。
公式リザルトによると、各車の成績は以下の通り。
総合順位. | クラス順位. | カーナンバー. | ドライバー | エントラント | シャシー | 周回数 |
---|---|---|---|---|---|---|
28位 | 1位 | 64 | Bill Rutan / Paul Richards / Ray Cuomo | Roosevelt Auto Co. Inc. | Fiat-Abarth 750 Record Monza | 152 |
29位 | 2位 | 62 | Lanzo Cussini / Remo Cattini | Roosevelt Auto Co. Inc. | Fiat-Abarth 750 Record Monza | 150 |
30位 | 3位 | 65 | Bob Kuhn / Jim Jeffords | George F. Schrafft | Fiat-Abarth 750 Record Monza | 149 |
32位 | 4位 | 63 | Mario Poltonieri / Alfonso Thiele | Roosevelt Auto Co. Inc. | Fiat-Abarth 750 Record Monza | 147 |
ヨーロッパでの成功:コッパ・インテル・エウローパ
レコルト・モンツァの成功はアメリカ大陸に留まらなかった。1959年にモンツァで開催されたコッパ・インテル・エウローパでは、アルフォンソ・ティーレがフィアット・アバルト750を駆り、GT750クラスで優勝した。ティーレは同じ年のモンツァGTグランプリではフェラーリ250GTで総合優勝しており、当時のレース環境と彼のドライバーとしての多様性を示している。1959年シーズンを通じて、レコルト・モンツァはサーキットレースやヒルクライムで数多くの勝利を収めた。
これらの結果は、セブリングでの勝利が偶然ではなかったことを証明している。この車は、大西洋の両側で、そのクラスにおいて一貫して支配的な強さを発揮したのだ。
ル・マンの遺産
1961年ル・マンへの挑戦:複数台での参戦
アバルトは、1961年のル・マン24時間レースに強力なチームを送り込み、このイベントへの真剣な取り組みを示した。エントリーには1000cc以下のクラスの車両が含まれていた。
カーナンバー55 アバルト 700S: ドライバーはポール・コンドリラー / カール・フォイテク(リタイア)
カーナンバー56 アバルト 700S: ドライバーはジョルジオ・バッシ / ジャンカルロ・リガモンティ(リタイア)
カーナンバー8 アバルト 700S: スクデリア・セレニッシマからのエントリー。ドライバーはピエロ・フレスコバルディ / ラファエレ・カマロータ(リタイア)
カーナンバー60 アバルト 850S: ドライバーはデニス・ハルム / アンガス・ハイスロップ(総合14位、S850クラス優勝)
これは、総合優勝よりもクラス優勝を狙った、大規模なファクトリー体制による挑戦でした。後にF1チャンピオンとなるデニス・ハルムをカーナンバー60に起用したことは、アバルトが投入した才能の質の高さを示している。複数台をエントリーさせる戦略は、耐久レースにおいて完走車を確保する確率を高めるための一般的な手法だった。
クラス優勝:カーナンバー60 アバルト 850S
この挑戦における成果は、カーナンバー60のアバルト850Sによってもたらされた。この車は263周を走りきり、総合14位という驚異的な順位でフィニッシュし、850ccスポーツクラスで優勝した。この車両はレコルト・モンツァのプラットフォームを進化させたもので、847ccのエンジンを搭載していた。
これは絶大な成功だった。1リッター未満の車でル・マンのトップ15に入り、多くのよりパワフルなマシンを打ち負かしたことは、効率、軽量、信頼性というアバルトの哲学の正しさを証明した。この勝利は「LM」開発プログラムが正しかったことを証明し、アバルトに誰もが欲しがるル・マンのクラス優勝トロフィーをもたらした。
アバルトの核となる思想は、軽量構造、空力効率、そして超効率的で信頼性の高い小排気量エンジンを通じてパフォーマンスを達成することだ。
ル・マン24時間レースは、まさにこれらの資質が試される世界で最も有名な舞台だ。カーナンバー60の850Sが達成した総合14位、クラス優勝という結果は、その哲学が具現化したものだった。それは、モンツァのバンクで証明されたアバルトの原則が、ル・マンという試練の場においても適応し、効率と信頼性によってより大きくパワフルな車を打ち負かすことができる、優れたものであることを世界に示したのだ。
カーナンバー | モデル | エンジン | ドライバー | エントラント | 結果(総合/クラス順位、周回数) |
---|---|---|---|---|---|
60 | 850S | Fiat 847cc S4 | Denny Hulme / Angus Hyslop | Abarth & Cie | 14位 / S850クラス1位、263周 |
55 | 700S | Fiat 701cc S4 | Paul Condriller / Carl Foitek | Abarth & Cie | DNF (リタイア) |
56 | 700S | Fiat 701cc S4 | Giorgio Bassi / Giancarlo Rigamonti | Abarth & Cie | DNF (リタイア) |
8 | 700S | Fiat 701cc S4 | Piero Frescobaldi / Raffaele Cammarota | Scuderia Serenissima | DNF (リタイア) |
その他のアバルトのル・マン参戦
1961年の挑戦は、レコルト・モンツァ・ファミリーのル・マンにおける活動の頂点だった。その前年、1960年のル・マンには、ザガートスタイルのボディを持つ700ccのアバルトが1台参戦したが、わずか31周でリタイアしている。その後、アバルトは数年間ル・マンから遠ざかり、1967年に1300 GTで復帰するまで、その姿を現すことはなかった。1961年の挑戦が、アバルトにとって、いかに重要かつ集中的なものであったかを示している。
The Scorpion of the Idaten: Abarth Record Monza - A Glorious Legacy
Carlo Abarth, a former Austrian racer, founded "Abarth & C." in Italy in 1949, adopting the scorpion of his astrological sign as the logo. This scorpion, a perfect symbol for his philosophy of being "small but mean," was ideal for the high-performance, small-displacement cars he created. Abarth initially built a strong financial foundation by manufacturing high-performance exhaust systems for Fiat cars, later expanding his fame with tuning kits based on the Fiat 600. This led to a symbiotic relationship where Fiat provided unfinished vehicles for Abarth to transform into high-performance machines, with a contract that paid Abarth a bonus for every race victory.
For the development of dedicated race cars, Abarth partnered with the coachbuilder Zagato, who provided lightweight and aerodynamically superior aluminum bodies. This combination of Abarth's exceptional engine technology and a light chassis became the core of its competitiveness against larger-displacement rivals.
The name "Record Monza" originated from a series of incredible endurance records set at the Monza circuit in 1958. At the heart of this car was the ultimate "Bialbero" (DOHC) engine, designed by the legendary Gioacchino Colombo, which squeezed 57 horsepower from 747cc. For the "LM" version developed for Le Mans, the engine was further tuned to produce 84 horsepower, reaching a top speed of 200 km/h.
Aiming for success in the vast and lucrative American market, Abarth entered the 1959 Sebring 12 Hours. With full factory support, his machines achieved a stunning 1-2-3-4 finish in the GT750 class, proving their capability to the world. This victory received widespread coverage in the American press and became an iconic example of Abarth's philosophy of "win on Sunday, sell on Monday."
In 1961, Abarth took on the challenge of the 24 Hours of Le Mans. The #60 Abarth 850S, in particular, achieved a monumental feat by finishing 14th overall and winning the 850cc class. This victory demonstrated that Abarth's philosophy of lightweight construction, aerodynamics, and reliable, high-efficiency small-displacement engines was successful even on the world's most demanding race stage.
飛毛腿蠍子:阿巴特・蒙札紀錄 - 榮耀軌跡
卡洛・阿巴特是出身奧地利的前賽車手,於1949年在義大利創立了以自己星座蠍子為標誌的「阿巴特&C.」。蠍子象徵著他的哲學「小而毒(small but mean)」,完美契合了他所創造的小排氣量高性能車。阿巴特起初透過生產專為飛雅特車款設計的高性能排氣系統,奠定了穩固的財務基礎,後來又以飛雅特600為基礎的改裝套件而聲名遠播。這建立了一種共生關係:飛雅特提供未完成的車輛,由阿巴特將其打造成高性能機器,並簽訂了每贏得一場比賽就支付獎金的合約。
為了開發專用賽車,阿巴特與車身製造廠扎加托合作。扎加托提供輕量化且空氣力學優異的鋁製車身,並與阿巴特卓越的引擎技術相結合。這種強大引擎和輕量底盤的結合,正是阿巴特挑戰大排氣量競爭對手的核心競爭力。
「蒙札紀錄」這個名稱,源自1958年在蒙札賽道上創造的一系列驚人耐久紀錄。這款車的核心是傳奇工程師喬亞基諾・科倫坡設計的究極「雙凸輪軸(Bialbero)」引擎,從747cc中榨出57匹馬力。為參加利曼賽事而開發的「LM」版本,經過進一步調校可產生84匹馬力,最高時速達到200公里。
為了在龐大且利潤豐厚的美國市場取得成功,阿巴特參加了1959年的賽百靈12小時耐力賽。在工廠的全面支援下,他的車隊在GT750組別中取得了令人驚豔的1-2-3-4完賽佳績,向全世界證明了其實力。這場勝利在美國媒體上獲得廣泛報導,成為阿巴特「週日贏比賽,週一賣產品」哲學的標誌性體現。
1961年,阿巴特挑戰利曼24小時耐力賽。其中,編號60的阿巴特850S完成了一項壯舉,以總成績第14名衝線,並奪得了850cc組別冠軍。這場勝利證明了阿巴特的哲學----透過輕量化、空氣力學和可靠高效的小排氣量引擎來實現性能----在世界上最嚴酷的賽事中同樣奏效。