FIAT ABARTH 131 RALLY
ありふれた出自を持つ、異例のチャンピオン
ここに展示されているフィアット131アバルト・ラリーは、単なる歴史的なラリーカーではない。それは、モータースポーツにおける情熱と商業主義、エンジニアリングの奇跡と企業戦略が交錯した、1970年代という時代の象徴だ。この車の物語は、ごくありふれたファミリーカーが、いかにして世界で最も過酷なモータースポーツの頂点に上り詰めたかという、類稀なる変貌の記録に他ならない。
物語の始まりは、1974年に発表されたフィアット131という、極めて平凡なセダンだった。成功を収めたフィアット124の後継として市場に投入されたこの車は、実用性を第一に設計された、特筆すべき特徴のない「ごく一般的なサルーン」。しかし、この控えめなセダンは、フィアット・グループの采配により、世界ラリー選手権(WRC)の覇者となる運命を背負うことになる。
この驚くべき変貌を成し遂げたのが、1971年以来フィアット傘下で競技車両開発を担ってきたアバルトだった。アバルトにとって、フィアットの量産モデルをベースに「精悍なレーシングマシン」へと仕立て上げることは、まさに得意中の得意分野。彼らの「アバルト・マジック」は、この平凡なセダンを、WRCの歴史にその名を刻む「世界を制するラリーマシン」へと昇華させた。
しかし、このプロジェクトの根底にあったのは、純粋なレースへの情熱だけではなかった。フィアット131アバルトの物語は、商業的な販売促進という明確な目的から生まれた、計算され尽くした企業戦略と、それを実現した驚異的な技術力の結晶である。この車は、ラリーで勝つために作られたというよりも、ラリーで勝つことによって「売る」ために作られたのだ。この一点において、131アバルトは、それ以前のラリーカー、特に同じフィアット・グループに属しながら、純粋な勝利のために生まれたランチア・ストラトスとは一線を画す。その誕生の背景には、市販車の販売を最優先するプラグマティズム(実用主義)があり、モータースポーツにおける哲学の大きな転換点を象徴していた。
レギュレーションという名の舞台:グループ4の世界
フィアット131アバルトの特異な成り立ちを理解するためには、当時の世界ラリー選手権(WRC)の根幹をなす競技規則、FIA(国際自動車連盟)が定めた「グループ4」規定を理解することが不可欠だ。このレギュレーションこそが、131アバルトのようなマシンを生み出す土壌となったのだ。
1970年代後半、WRCのトップカテゴリーはグループ4によって争われていた。この規定は、市販のグランドツーリングカー(GTカー)をベースに、一定の改造を施した車両のためのものだった。そして、このグループ4規定の中で最も重要かつ決定的なルールが、「ホモロゲーション(公認)」の取得条件だ。競技に参加するためには、ベースとなる車両を「連続した24ヶ月間に400台以上(当初は500台だったが後に緩和)」生産し、一般市場で販売しなければならないと定められていた。
この「400台」という生産義務は、結果として「ホモロゲーション・スペシャル」と呼ばれる特殊な車両群を生み出すきっかけとなった。メーカーは、このルールを逆手に取る戦略を編み出す。つまり、まず競技で勝つことを目的とした純粋なレーシングマシンを設計し、その後に、ホモロゲーション取得のためだけに、最低生産台数である400台の公道走行可能なバージョンを製造・販売するという手法だ。これらのモデルは、市販車と同じ名前と基本的なシルエットを持ちながら、その中身は全くの別物であり、まさに「公道を走るレーシングカー」だった。フィアット131アバルトは、このホモロゲーション・スペシャルの典型的な成功例と言えるだろう。
ここに、グループ4規定が内包していた一つのパラドックスが見えてくる。本来、生産車をベースとすることで、ラリーカーと市販車の関連性を保ち、ファンに親近感を持たせることを意図したはずのルールが、皮肉にもメーカーに「革新のための抜け道」を提供した。400台という生産義務は、一見すると厳しい制約だが、見方を変えれば、量産を前提としない過激な設計を許容する「魔法の数字」でもあった。フィアットとアバルトは、このルールを最大限に活用した。彼らは既存の131セダンを単にチューニングしたわけではない。ラリーで勝つための理想的なコンポーネント(エンジン、サスペンション、ボディ)を開発し、それを131のボディシェルに組み込むというアプローチを取った。したがって、131アバルトは「改造されたセダン」ではなく、「セダンの外観を持つ、ルール準拠のために公道仕様が作られたレーシングマシン」と呼ぶのが、その本質をより正確に捉えていると言えよう。
トリノのクーデター:フィアットとランチアのパワーゲーム
フィアット131アバルトの誕生劇は、技術的な挑戦であると同時に、フィアット・グループ内で繰り広げられた冷徹な企業戦略の物語でもあった。そのハイライトは、当時WRCで無敵の強さを誇っていたグループ内のブランド、ランチア・ストラトスのワークス活動を意図的に停止させたという、衝撃的な決定だ。
1970年代半ばのWRCは、ランチア・ストラトスHFの時代だった。ベルトーネによる未来的なデザインのボディにフェラーリ・ディーノのV6エンジンを搭載したこのマシンは、ラリーで勝つことだけを目的に開発された、史上初のパーパス・ビルト・ラリーカーだった。1969年以来フィアット傘下にあったランチアは、このストラトスで1974年から1976年にかけてWRCマニュファクチャラーズタイトル3連覇という偉業を成し遂げ、ラリー界に君臨していた。
しかし、その栄光の絶頂期に、親会社であるフィアットは非情な決断を下す。ワークス・ストラトスの活動を強制的に終了させ、グループのラリー活動の主軸を、自社の基幹モデルであるフィアット131へと移行させることを決定したのだ。その理由は純粋に商業的なものだった。フィアットの経営陣は、特殊で高価なストラトスが勝利を重ねるよりも、大衆車である131が勝利する方が、はるかに大きな「販促効果」を生むと考えた。ストラトスは、もはや「ラリー専用のような車種」と見なされ、市販車販売への貢献度が低いと判断されたのだ。
この戦略転換に伴い、フィアット・グループのモータースポーツ体制は大規模に再編される。フィアットとランチアのレース部門は統合され、皮肉なことに、ストラトスでの成功を指揮したランチアの名将チェーザレ・フィオリオが、その統合部門全体の責任者に就任した。新たなグループ戦略の下、ラリー活動はフィアット・ブランドが担い、ランチアはスポーツカーレースへ、そしてF1は同じくグループ傘下のフェラーリが担当するという役割分担が明確に定められた。自ら育て上げたチャンピオンマシン、ストラトスの栄光に幕を引くという役目を、その生みの親であるフィオリオ自身が担わなければならなかったことは、この決定の冷徹さを物語っている。
この一連の動きは、単なる戦略変更ではなく、フィアットによる「チャンピオンブランドの戦略的共食い」とでも言うべき行為だった。フィアットは、自らが所有するブランド(ランチア)の成功と勢いを意図的に犠牲にし、中核ブランド(フィアット)の利益のためにそのリソースを振り向けたのだ。これは、巨大自動車コングロマリットの非情な論理を浮き彫りにする出来事だった。親会社の視点から見れば、基幹ブランドの販売を促進するための合理的な経営判断であったかもしれないが、それは同時に、ランチアがラリーで築き上げてきた革新的で高性能なブランドイメージを希薄化させるリスクを伴うものだった。この「トリノのクーデター」は、ラリーの勝敗が、もはやコース上のライバルによってではなく、役員室の会計士やマーケティング担当役員によって左右され得る、新たな時代の到来を告げるものだった。
サソリの毒針:セダンの鉄塊から伝説を鍛え上げる
フィアット131アバルトは、その平凡な出自とは裏腹に、アバルトとそのパートナー企業による徹底的なエンジニアリングによって、全く別の乗り物へと生まれ変わった。その変貌の度合いは、「チューニング」という言葉では到底表現しきれないほど根本的なものだった。
基盤: 開発のベースとなったのは、フィアット131ミラフィオーリの2ドアセダンのボディシェル。
エンジン - 野獣の心臓部: 心臓部には、フィアット132に搭載されていた排気量1995ccのDOHC(ダブル・オーバーヘッド・カムシャフト)直列4気筒エンジンが選ばれたが、その内容は大きく異なった。アバルトの最も重要な功績は、このエンジンのために全く新しい16バルブのシリンダーヘッドを開発したことだ。これにより、吸排気効率は劇的に向上した。公道仕様である「ストラダーレ」では最高出力が140HPに抑えられていたが、競技仕様の「コルサ」では215HPを発生。最終的にはフューエルインジェクションとドライサンプ潤滑方式の採用により、230HPにまで達した。
シャシー&サスペンション - 決定的な違い: スタンダードな131からの最も劇的な変更点は、リアサスペンションにあった。量産車の固定車軸(リジッドアクスル)は完全に取り払われ、代わりにアバルトが専用設計したセミトレーリングアーム式の独立懸架サスペンションが与えられた。この高度な足回りは、ラリーでの路面追従性と操縦安定性を飛躍的に高めるための、まさに核心的な改良だった。この技術には、アバルトが独自に開発し、1975年のジーロ・ディ・イタリアで優勝したV6エンジン搭載のプロトタイプ「ティーポ035」で得た経験が活かされている。
ボディ&エアロダイナミクス - ベルトーネの仕事: その獰猛なスタイリングは、イタリアの名門カロッツェリア、ベルトーネによって手掛けられた。幅広のタイヤを収めるために装着された、巨大で角張ったオーバーフェンダーは、この車の最も象徴的なビジュアルとなり、見る者に強烈な印象を与える。軽量化も徹底され、ボンネット、トランクリッド、フェンダーといったボディパネルは、軽量なFRP(ガラス繊維強化プラスチック)製のものに交換された。さらに、当時としては先進的だったエアロダイナミクスも追求され、フロントにはバンパーの代わりにエアダム形状のスカートが、ルーフ後端とトランクリッドにはそれぞれスポイラーが追加され、高速走行時の安定性を高める役割を果たした。
生産: ホモロゲーション取得に必要な400台のストラダーレモデルは、フィアット本体の生産ラインではなく、デザインを担当したベルトーネが、トリノ近郊のグルリアスコにある自社工場で組み立てを行った。
表1:アバルトによる変貌
特徴 | フィアット 131 ミラフィオーリ (標準車) | フィアット 131 アバルト・ラリー ストラダーレ (公道仕様) | フィアット 131 アバルト・ラリー コルサ (競技仕様) |
---|---|---|---|
エンジンベース | SOHC/OHV 4気筒 | DOHC 4気筒 1995cc | DOHC 4気筒 1995cc |
シリンダーヘッド | 8バルブ | アバルト製 16バルブ | アバルト製 16バルブ |
最高出力 | 約75 HP | 140 HP | 215 HP - 230 HP |
リアサスペンション | 4リンク・リジッドアクスル | アバルト製 独立懸架 (セミトレーリングアーム) | アバルト製 独立懸架 (セミトレーリングアーム) |
ボディパネル | スチール製 | ボンネット、フェンダー、トランクリッドがFRP製 | ボンネット、フェンダー、トランクリッドがFRP製 |
ホイール | スチール製 | クロモドラ製 マグネシウム合金 | 競技用アロイホイール |
エアロダイナミクス | なし | フロントエアダム、ルーフ/トランクスポイラー | フロントエアダム、ルーフ/トランクスポイラー |
車両重量 | 約1020 kg | 980 kg | 約950 kg |
この技術的な詳細を分析すると、アバルトのエンジニアリング哲学が「モジュール式」であったことが明らかになる。彼らは既存の車両を改良するのではなく、131のボディシェルを基本的な「プラットフォーム」として捉えた。そして、競技において弱点となる部分(パワー、ハンドリング、重量)を特定し、それらを目的別に開発された高性能な「モジュール」と体系的に置き換えていった。リアサスペンションは改造ではなく、専用設計品への換装。シリンダーヘッドはポート研磨ではなく、全く新しい16バルブ設計品への交換。ボディパネルは単なる拡幅ではなく、軽量複合材への置換。このアプローチは、X1/9プロトティーポや131「ティーポ035」といった先行開発車両で培われたものであり、市販車のシルエットの中にレーシングカーを構築するという、極めて高度なエンジニアリング手法を示している。それはもはや「改造」ではなく、レーシングカーの魂をセダンの肉体へと「移植」する作業に近かった。
征服と栄光:世界の舞台を支配する
計算され尽くした戦略と、アバルトの卓越した技術力によって生み出されたフィアット131アバルトは、WRCの舞台でその真価を遺憾なく発揮し、ラリー史に輝かしい一章を刻んだ。
選手権の制覇: このマシンは、フィアット経営陣が掲げた至上命題を見事に達成する。1977年、1978年、そして1980年と、3度にわたってWRCのマニュファクチャラーズタイトルを獲得したのだ。この成功は、物議を醸したランチア・ストラトスの活動停止という戦略が、商業的な観点からは正しかったことを証明する結果となった。
伝説のドライバーたち: 131アバルトのステアリングを握ったのは、マルク・アレン、ヴァルター・ロール、ベルナール・ダルニッシュといった、時代を代表する偉大なラリードライバーたちだ。彼らの卓越したドライビングスキルと、マシンの持つポテンシャルが融合し、数々の勝利を生み出した。
記憶に残るカラーリング: 131アバルトは、そのアイコニックなカラーリングによっても、70年代ラリーの視覚的な象徴となった。特に有名なのは、イタリアの航空会社アリタリアの緑・白・赤のストライプをまとった姿 と、フィアットの純正オイルブランドであるオリオ・フィアットの鮮やかな青と黄色のカラーリングです。これらのカラーリングは、今なお多くのファンの記憶に鮮明に残っている。
ライバルとの激闘: 131アバルトの勝利は、決して平坦な道ではなかった。当時のWRCには、フォード・エスコートRS1800という極めて強力なライバルが存在し、両者は各イベントで熾烈な戦いを繰り広げました。この強豪との競争を制してタイトルを獲得したことは、131アバルトの性能の高さをより一層際立たせている。
デビューとパフォーマンス: 1976年のデビュー直後から、131アバルトは高い戦闘力を発揮した。特に象徴的だったのは、1977年の開幕戦モンテカルロ・ラリーでの走りだ。このラリーで131アバルトは、自らが後継として引導を渡したはずのランチア・ストラトスを最後まで追い詰め、僅差の2位でフィニッシュするという目覚ましいパフォーマンスを見せつけた。
131アバルトの成功の要因を分析すると、その強さが単なる最高速度やパワーだけではなかったことがわかる。もちろん、アバルト製エンジンは強力だが、ストラトスのようなエキゾチックな成り立ちではなかった。その勝利の鍵は、むしろ「信頼性」と「適応性」にあった。資料には「実戦を意識した信頼性の高いサスペンション」という記述があり、また、ターマック(舗装路)用とグラベル(未舗装路)用で異なる仕様(例えば、ターマック用はさらにワイドなフェンダーを持つ)が用意されていたことも示唆されている 。これは、131アバルトが、WRCシーズンの多様な路面状況に対応できる、極めて懐の深いマシンであったことを物語っている。アバルトとフィアットが生み出したのは、速いだけでなく、シーズンを通しての過酷な戦いを戦い抜くことができる、頑強な「働くチャンピオン」だった。その成功は、純粋な速さに加え、エンジニアリングにおける耐久性と多用途性の勝利でもあったのだ。
バトンの継承:131の遺産と037の誕生
フィアット131アバルトがWRCで栄光を掴んだ後、ラリーの世界は新たな時代へと突入する。1982年シーズンから、WRCのトップカテゴリーは、それまでのグループ4に代わり、さらに過激で高性能な「グループB」規定へと移行した。このレギュレーション変更は、フィアット・グループのモータースポーツ戦略に、再び大きな転換をもたらした。
再びの戦略転換: フィアット・ブランドでの販売促進という目的を達成したフィアット・グループは、次なる戦略を打ちだす。グループBという、超高性能な純粋レーシングカーが競い合う新時代においては、そのマシンを代表するブランドは、大衆車のフィアットよりも、専門的で高性能なイメージを持つランチアの方がふさわしい、と判断した。こうして、かつてフィアットにラリー活動の主役の座を譲ったランチアに、再びそのバトンが渡されることになった。
後継者、ランチア・ラリー037: この決定に基づき、131アバルトの後継となるグループBマシンとして開発されたのが、ランチア・ラリー037だ。
アバルトという共通項: ここで極めて重要なのは、この全く新しいランチアのラリーカー開発を主導したのが、またしてもアバルトであったという事実だ。131アバルトを成功に導いたアバルトの技術者たちが、そのままランチア037の開発も担当した。事実、037の公式なプロジェクトコードは「アバルト SE037」であり、その出自がアバルトにあることを明確に示している。フィアットからランチアへとブランドは変われど、その開発の血脈はアバルトによって途切れることなく受け継がれていた。
技術的なDNAの継承: 131アバルトからランチア037へは、単なる開発チームの継続だけでなく、明確な技術的遺伝子が受け継がれている。
エンジン: 037のエンジンは、131アバルトと同じフィアット製DOHCツインカムエンジンブロックをベースにしており、アバルトが131で完成させた16バルブヘッドの経験が色濃く反映されていた。
過給器の採用: 131の現役時代、アバルトは水面下でスーパーチャージャー(アバルトは「ボルメックス」と呼称)を搭載した131のプロトタイプ「035」をテストしていた。グループB時代に向けて、フィアット・グループ内ではスーパーチャージャーとターボチャージャーのどちらを採用するかで議論があったが、最終的には131をテストベッドとして熟成が進められていたアバルトのスーパーチャージャー技術が、ランチア037に採用されることになった。
時代の架け橋: このように、131アバルトは、グループ4時代のランチア・ストラトスと、グループB時代のランチア・ラリー037とを結ぶ「失われた環(ミッシング・リンク)」と評されている。131と037は、自然吸気エンジンが主流だった時代から、過給器が必須となったグループB時代への、技術的な架け橋を象徴する存在なのだ。そして、131の哲学を受け継いだ037は、1983年にWRCタイトルを獲得し、後輪駆動車として最後のWRCチャンピオンという金字塔を打ち立てた。
表2:時代の架け橋 - グループ4からグループBへ
特徴 | フィアット 131 アバルト (グループ4) | ランチア・ラリー037 (グループB) |
---|---|---|
マーケティング上のブランド | フィアット | ランチア |
開発主導 | アバルト | アバルト |
シャシー哲学 | 量産車のモノコックを強化 | 専用設計の鋼管スペースフレーム |
エンジンレイアウト | フロントエンジン・リアドライブ (FR) | ミッドシップエンジン・リアドライブ (MR) |
過給方式 | 自然吸気 (NA) | スーパーチャージャー (ボルメックス) |
WRCの時代 | グループ4 (1977-1981) | グループB (1982-1986) |
ホモロゲーションベース | 131 ミラフィオーリ 2ドア | ベータ・モンテカルロ (キャビン部) |
この歴史を俯瞰すると、131アバルトのプログラムが、意図せずして「グループB時代の実験場」として機能していたことがわかる。公にはフィアット車の販売促進というマーケティング目的で運営されていたのだが、スーパーチャージャーを搭載した「035」プロトタイプの存在は、その裏で並行して進められていた秘密の目的を明らかにしている。アバルトの技術者たちは、マーケティングという表向きの任務を遂行しながら、その予算とリソースを活用して、次世代のラリー技術を開発・テストしていた。131のプログラムは、グループB時代を定義することになる過給技術やシャシーコンセプトを開発するための、格好の隠れ蓑であり、またとない研究開発の機会を提供した。したがって、131は単に037の「前任者」であっただけでなく、その「揺りかご」でもあったのだ。平凡なセダンをチャンピオンにするというプロジェクトが、結果的に、そのエキゾチックな後継車の技術的基盤のすべてを築く資金と機会を提供したという事実は、アバルトの技術者たちの隠された戦略的なしたたかさを物語っている。
単なるラリーカーを超えて
フィアット131アバルトは、その歴史の中に多くの矛盾を抱えた車だ。それは、ごく普通のファミリーセダンでありながら、世界チャンピオンに輝いた。販売促進のためのマーケティングツールとして生まれながら、エンジニアリングの象徴となった。そして、グループ4時代の信頼できる働き者でありながら、後のグループBという怪物たちの時代への道を切り拓いた。
この車は、それが生まれた時代を完璧に映し出す記念碑と言えるだろう。レギュレーションの巧みな解釈、企業内の激しい政治力学、そしてアバルトやベルトーネといった専門集団が持つ生々しいまでの技術力が、この一台に凝縮されている。
フィアット131アバルトが歴史に占める地位は、単に3度の世界タイトルを獲得したという事実によってのみ保証されるものではない。フィアットとランチアという二大ブランドの栄光と確執が織りなす、魅力的かつ冷徹な物語において中心的な役割を果たし、そしてラリー史における最も伝説的な二つの時代(グループ4とグループB)を結ぶ、決定的な技術的架け橋となったことによって、その価値は不動のものとなっている。それはあらゆる意味で、そのありふれた出自をはるかに超える影響力を後世に与えた、計算され尽くしたチャンピオンなのだ。
Fiat 131 Abarth Rally: An Exceptional Champion with Ordinary Origins
The Fiat 131 Abarth Rally isn't just a historical rally car; it's a symbol of the 1970s, an era where motorsport passion, commercial interests, engineering prowess, and corporate strategy converged. Its story is a rare account of a humble family sedan's transformation into a world champion.
The journey began with the Fiat 131, a remarkably ordinary sedan introduced in 1974. Designed for practicality, this successor to the successful Fiat 124 was an unassuming saloon. Yet, through a strategic move by the Fiat Group, this modest car was destined to become a World Rally Championship (WRC) victor.
This incredible metamorphosis was spearheaded by Abarth
, the group's competition arm since 1971. Abarth's specialty was transforming production models into formidable racing machines. Their "Abarth magic" elevated the mundane sedan into a championship-winning rally legend.
However, the project was not driven by pure racing passion alone. The 131 Abarth was the result of a calculated corporate strategy aimed at commercial promotion, underpinned by astounding engineering. It wasn't built merely to win rallies; it was built to "sell" cars by winning rallies. This pragmatism set it apart from its group sibling, the Lancia Stratos, which was born purely for victory. This shift symbolized a major philosophical change in motorsport, where marketability became a primary driver.
A Symphony of Engineering and Strategy
To understand its unique origins, one must consider the Group 4 regulations
of the time. This FIA rule mandated that participating cars be based on production grand touring cars, with a crucial requirement: at least 400 units had to be produced for public sale. Abarth masterfully exploited this rule, creating a "homologation special." They designed a purebred racing car first, then built the minimum number of road-legal versions to meet the regulations.
Under the hood, Abarth replaced the standard engine with a new 16-valve cylinder head
. The most dramatic change was in the rear suspension, where the production car's rigid axle was discarded for a specially designed independent setup
.
Bertone
handled the aggressive styling, featuring iconic wide, boxy fender flares and lightweight FRP body panels. This blend of strategy and engineering led to immense success. The 131 Abarth secured the WRC Manufacturers' title three times
(1977, 1978, and 1980), proving the commercial wisdom of Fiat's controversial decision to sideline the Stratos.
The car's strength lay not just in speed, but in its exceptional reliability and adaptability
, which were crucial for competing across varied terrains and conditions throughout a WRC season.
A Bridge to a New Era
The 131 Abarth also served as a crucial bridge to the next era of rallying. With the advent of the more extreme Group B regulations
, Fiat's focus shifted back to the high-performance Lancia brand.
The successor, the Lancia Rally 037
, was also developed by Abarth
, inheriting technologies like the supercharger, which had been tested on 131 prototypes. The 131 program functioned as a testing ground for technologies that would define the Group B era, proving the foresight of Abarth's engineers.
The Fiat 131 Abarth Rally is more than a car; it is a monument to its era. It's a champion born from humble origins, a marketing tool that became an engineering icon, and a reliable workhorse that paved the way for the legendary monsters of Group B.
飛雅特 131 Abarth Rally:平凡出身卻非凡的冠軍
飛雅特 131 Abarth Rally 不僅是一輛傳奇的拉力賽車,更是 1970 年代汽車工業的縮影,它融合了賽車熱情、商業策略、精湛工程與企業決策。它的故事,是一段平凡的家庭房車如何蛻變為世界頂尖賽車的非凡紀錄。
故事始於 1974 年,飛雅特發表了一款名為 131 的普通四門房車。然而,在飛雅特集團的運籌帷幄下,這輛低調的房車被賦予了征服世界拉力錦標賽(WRC)的使命。這場驚人蛻變的幕後推手是自 1971 年以來一直為飛雅特集團開發賽車的 @Abarth@。
131 Abarth 誕生於一項精心策劃的企業策略,其明確目標是@商業宣傳@。它不是為了純粹的勝利而生,而是為了「透過贏得比賽來銷售」。這一點使其與同屬飛雅特集團、但為純粹勝利而生的 Lancia Stratos 截然不同。
Group 4 規範與認證特仕車
當時 WRC 的核心規範是 @FIA 的 Group 4 規定@,這項規定要求參賽車輛必須基於量產的 GT 跑車,且必須生產至少 400 輛供公開銷售。Abarth 精準地利用了這項規定,創造出一款「認證特仕車」。他們首先設計出純粹的賽車,然後為了符合規定,才生產最低數量的道路版本。
在技術層面,Abarth 進行了徹底的改造。他們為引擎開發了全新的 16 汽門汽缸蓋@,並將量產車的固定軸式後懸吊,改為專門設計的@獨立式懸吊@。此外,設計公司 @Bertone
負責其激進的外觀,配備了標誌性的寬體輪拱和輕量化的 FRP 車身鈑件。
輝煌的勝利與傳承
這場策略與技術的完美結合,最終獲得了巨大的成功。飛雅特 131 Abarth 在 @1977、1978 和 1980 年三度奪得 WRC 製造商冠軍@。這輛車的優勢不僅在於速度,更在於它在嚴酷賽季中展現出的@可靠性與適應性@。
飛雅特 131 Abarth 也是一個重要的時代橋樑。隨著更為極端的 Group B 規定
的到來,飛雅特集團再次將賽車重任交回給 Lancia。而其繼任者 Lancia Rally 037@,同樣由 @Abarth
團隊開發。事實上,131 計畫在無形中成為了 Group B 時代技術的實驗場,為 037 的誕生奠定了堅實基礎。
Engine Type | 水冷直列4気筒DOHC 16バルブ |
---|---|
Cubic capacity | 1,995cc |
Maximum horse power | 140HP/6,400rpm |
Maximum torque | 17.5kg-m/3,600rpm |
WRC戦歴
1976年/テスト参戦。1000湖ラリーでM・アレンが初優勝。
1977年/ランチアのラリーワークス活動が縮小したこともあり、全11戦のうち5勝し、メイクス・タイトルを獲得。
1978年/ポルトガル、アクロポリス、1000湖、ケベック、ツール・ド・コルスで優勝し、2年連続のチャンピオン・マシンとなった。この年を最後にLancia Stratosのワークス参戦が終了。ランチアのラリー部門が解散され、アバルトに統合された。131がアリタリア・カラー(白+緑のカラーリング)となった年でもある。
1979年/フォードにWRCタイトルを獲得。
1980年:5戦の勝利を得、3回目のワールド・タイトルを獲得。
1981年/Audi QuattoroやRenault 5 Turboなど次世代マシンが現れ始め、Fiat Abarth 131 Rallyは1勝で終わる。この頃、WRCのレギュレーションがグループ4からグループBへと変わり始め、Fiatは次期ラリーマシンとしてLancia 037 Rallyの開発に着手することとなるのだ。