四国自動車博物館

ALFA ROMEO GTA1300 Junior Gr.5 MONZEGLIO

クオーレ・スポルティーボ:アルファロメオ GTA 1300 Juniorとツーリングカーレースの黄金時代

勝利のために生まれた「小さな巨人」

1960年代後半から70年代にかけて、ヨーロッパのツーリングカーレースシーンを席巻した一台のマシンがある。その名をアルファロメオ GTA 1300 Juniorという。レースのレギュレーションを徹底的に研究し、勝利という唯一の目的のために生み出された「ホモロゲーション・スペシャル」であり、アルファロメオのレーシングスピリット「クオーレ・スポルティーボ」を体現したマシンだ。
このマシンの物語は、技術革新、巧妙なルール解釈、そしてサーキットでの絶対的な支配の物語でもある。その核心には、イタリア語で「軽量化」を意味する_Alleggerita_という哲学が存在する。この単純かつ究極的な思想こそが、GTA 1300 Juniorを1300ccクラスの王者へと押し上げた原動力であった。

チャンピオンの血統

グランプリからグランツーリスモへ:戦後の戦略転換

第二次世界大戦以前、アルファロメオの名はグランプリレースの頂点に君臨していた。ヴィットリオ・ヤーノが設計したP3や、戦後のF1黎明期を支配したティーポ158/159「アルフェッタ」といったマシンは、ブランドに絶対的な名声をもたらした。しかし、戦後の経済状況の変化と、かつての僚友であったフェラーリのような新たなライバルの台頭は、アルファロメオに戦略的な転換を促した。純粋なレーシングカーの開発から、市販車をベースとしたカテゴリー、すなわちツーリングカーレースへとその主戦場を移したのである。これは、レースでの成功を市販車の販売促進に直結させるという、極めて合理的な戦略であった。

アイコンの誕生:ジュリア「ベルトーネ」クーペ

この戦略の中核を担ったのが、1962年に発表されたジュリア・シリーズである。当初はセダンとして登場したが、翌1963年、カロッツェリア・ベルトーネに在籍していた若きジョルジェット・ジウジアーロの手による、流麗なクーペモデルが発表された。このモデルは、その成功した前任者であるジュリエッタ・シリーズの後継として、バランスの取れたライン、特徴的な高いベルトラインを持ち、瞬く間にクラシックとしての地位を確立。13年にも及ぶ長い生産期間を通じて、多くのファンに愛されることになる。

「Alleggerita」:GTAの哲学

ジュリア・スプリントGTクーペが商業的な成功を収める中、アルファロメオのレース部門であるアウトデルタは、そのポテンシャルを最大限に引き出すべく、究極のモデルを開発した。1965年のアムステルダム・モーターショーで発表されたジュリア・スプリントGTAである。車名の「A」はイタリア語で「軽量化」を意味する_Alleggerita_の頭文字であり、その哲学を明確に示していた。
軽量化は徹底していた。ボディパネルは標準のスチールから、航空機にも用いられる軽量アルミニウム合金「ペラルマン25」に置き換えられ、ホイールもマグネシウム合金製に変更。内装からはカーペットや防音材、アームレストなどが取り払われ、結果として約200kgもの軽量化を実現した。エンジンもまた特別なチューニングが施された。有名なツインプラグ(1気筒あたり2本の点火プラグ)を持つシリンダーヘッド、大径化されたバルブ、高められた圧縮比により、出力は大幅に向上した。この「軽量化+パワーアップ」という方程式こそ、その後のすべてのGTAモデルに受け継がれる成功のレシピであった。

戦略兵器:GTA 1300 Junior

1968年、アルファロメオは新たな戦略兵器をサーキットに投入する。GTA 1300 Juniorである。このモデルは、より多くの若者にアルファロメオの魅力を伝えるために設定された市販モデル「GT 1300 Junior」から派生した。しかし、その目的は単なる廉価版レースカーの提供ではなかった。
当時のヨーロッパのツーリングカーレースシーンでは、1600cc以上の大排気量クラスだけでなく、1300cc以下の小排気量クラスも極めて人気が高く、激しい競争が繰り広げられていた。ミニ・クーパーやアバルト、フォード・エスコートといった小排気量の俊敏なマシンが覇を競うこのカテゴリーは、メーカーにとってブランドの優位性を示す重要な戦場であった。アウトデルタはすでに1600 GTAで大排気量クラスを席巻しており 、GTA 1300 Juniorの投入は、ツーリングカーレースの全カテゴリーを完全に制圧するための、計算され尽くした戦略的決断だったのである。
その仕様は、この目的を明確に反映している。エンジンは、高回転化に有利なショートストローク設計の1290ccユニットを採用。ボア78.0mmに対し、ストロークは67.5mmに設定された。もちろん、ヘッドはGTAの代名詞であるツインプラグ仕様で、吸気には大口径の45mmツイン・チョーク・ウェーバーキャブレターが装着された。1968年から1972年にかけて生産された総数447台のうち、実に300台がレース専用の「コルサ」モデルであったという事実が、このマシンの生粋のコンペティションマシンとしての性格を物語っている。

表1:技術的進化:市販車からレーシングマシンへ

特徴GT 1300 Junior (Stradale)GTA 1300 Junior (Corsa)モンゼリオ Gr.5
エンジン排気量1,290 cc1,290 cc1,290 cc
ボア x ストローク78.0×67.5 mm78.0×67.5 mm78.0×67.5 mm
シリンダーヘッドシングルプラグツインプラグツインプラグ
キャブレターウェーバー 40 DCOEウェーバー 45 DCOEウェーバー 45 DCOE
最高出力 (推定)89 hp約 165 hp160 hp以上
ボディパネルスチールペラルマン25合金FRP(ボンネット、ドア、トランク、フェンダー)
乾燥重量約 930 kg約 760 kg760 kg 以下 (推定)
ホイールスチールマグネシウム合金マグネシウム合金
ブレーキソリッドディスクソリッドディスク大径化 (推定)

混沌と栄光の1970年代ツーリングカーレース

1970年代のツーリングカーレースは、頻繁に変化するレギュレーションと、それに適応しようとするメーカーやチューナーの創意工夫が火花を散らす、ダイナミックな時代であった。この時代の主戦場は、FIA(国際自動車連盟)が定めたグループ規定に基づいていた。

主戦場:グループ2「特殊ツーリングカー」

GTA 1300 Juniorがその性能を最大限に発揮したのが、グループ2「特殊ツーリングカー」規定であった。これは、年間1,000台の生産を条件に、市販車をベースとしながらも大幅な改造を許容するカテゴリーである。エンジン内部の部品交換やボアアップ、サスペンションの変更、そしてメーカーがオプションとして公認を取得すれば軽量なボディパネルの使用も認められており、まさにチューナーの腕の見せ所であった。GTA Juniorは、この規定を完璧に利用するために生まれてきたマシンだったのである。

2.2 イタリアの特殊性とグループ5の胎動

国際レースではFIA規定が厳格に適用されたが、イタリア国内選手権では、しばしば独自の解釈や、より自由な「スペシャル」規定が採用された。これが、この時代のレースシーンの複雑さと面白さを生み出した。
「グループ5」という名称は、この時代において非常に紛らわしい使われ方をしている。

1972年時点の国際規定: FIAの公式なグループ5は、最低生産台数の要件がない3リッターの「スポーツカー」、つまり純粋なレーシングプロトタイプを指していた。

イタリア国内の「トゥーリズモ・スペチアーレ」: しかし、1972年頃のイタリア国内ツーリングカー選手権には、「トゥーリズモ・スペチアーレ」と呼ばれる、国際的なグループ2の枠を超える改造が認められたカテゴリーが存在した。これこそが、後の「シルエットフォーミュラ」の精神を先取りするものであった。

1976年のグループ5「シルエットフォーミュラ」: 1976年、FIAは全く新しい国際的なグループ5規定を導入する。これは、市販車のシルエット(外観の輪郭)さえ維持すれば、フェンダーの形状や材質、エンジン(ターボチャージャーの追加も含む)などに極めて自由な改造が許される、非常に過激な規定であった。

このレギュレーションの過渡期において、GTA Juniorのような熟成されたグループ2マシンは、イタリア国内の特別規定や、1976年以降の新グループ5規定に合わせてアップデートされ、長きにわたって第一線で戦い続けることができたのである。

サーキットの支配と次世代への遺産

クラスの絶対王者

GTA 1300 Juniorは、その技術的優位性を遺憾なく発揮し、サーキットを支配した。ヨーロッパツーリングカー選手権(ETCC)において、1971年と1972年に2年連続で1300ccクラスのマニュファクチャラーズタイトルを獲得。その軽量で俊敏なシャシーと高回転型エンジンは、テクニカルなサーキットではしばしばフォード・エスコートやBMW 2002といったライバルだけでなく、より排気量の大きなマシンをも脅かす存在であった。
この成功は、アウトデルタというワークスチームだけでなく、モンゼリオやコンレロといったイタリアの優れた独立チューナーたちの存在によっても支えられた。彼らの創意工夫は、GTAのポテンシャルを極限まで引き出し、数々のプライベーターに勝利をもたらした。

チャンピオンの鍛造:モンゼリオの傑作

職人チューナー:レナート・モンゼリオ

このマシンの心臓部と魂を吹き込んだのは、トリノを拠点としたチューナー、レナート・モンゼリオであった。彼は元々ランチア、後にアルファロメオの正規ディーラーを経営しながら、その無限の情熱を自身の工房でのマシン製作に注ぎ込んだ、生粋の職人であった。
彼のキャリアは、フィアット・トポリーノやランチア・アウレリアのチューニングから始まった。やがてその才能は開花し、アルファロメオのディーラーとなってからは、GTA、スポーツプロトタイプ、さらにはF3マシンまで手掛ける、イタリアモータースポーツ界で知らぬ者のない存在となった。彼の名は、タルガ・フローリオでの7度にわたるクラス優勝という輝かしい実績によっても裏付けられている。
しかし、モンゼリオの物語で最も劇的なのは、彼がアルファロメオの公式ワークスチームである「アウトデルタ」に対して成し遂げた勝利である。1971年、ルイジ・ポッツォ(Luigi Pozzo)が駆るモンゼリオ・チューンのGTA 1300 Juniorが、イタリア国内のグループ2選手権で並みいるアウトデルタのファクトリーマシンを打ち破り、年間チャンピオンの座を獲得したのだ。これはまさしく「ダビデがゴリアテを倒した」瞬間であり、モンゼリオが単なる有能なチューナーではなく、ファクトリーチームをも凌駕する「ジャイアントキラー」であったことを証明する出来事であった。したがって、この博物館の車両は、「チューニングされたアルファ」というだけでなく、「ファクトリーをその土俵で打ち負かした伝説の工房が生み出したマシン」という、より深い物語性を持つことになる。

勝者の解剖学:グループ5へのコンバージョン

このモンゼリオの傑作は、彼の経験と創意工夫のすべてが注ぎ込まれたマシンである。その技術的特徴は、当時の最先端を行くものであった。
ボディワーク: マシンの外観は、その過激な目的を雄弁に物語っている。標準のGTAが軽量なアルミ合金パネルを使用していたのに対し、モンゼリオはさらに一歩進み、より軽量で成形の自由度が高いFRP(繊維強化プラスチック)を広範囲に採用した。フロントとリアの大きく張り出したオーバーフェンダー、ボンネット、ドア、そしてトランクリッドに至るまでFRP製に置き換えられている。これは、後のシルエットフォーミュラで一般的となる手法であり、軽量化と空力性能の向上を両立させるための、当時としては極めて先進的なアプローチであった。
エンジン: 心臓部である1290ccツインカムエンジンは、標準のコルサモデル(約165馬力)を遥かに超えるレベルまでチューニングが施された。博物館の解説では「160馬力以上」と推定されているが、当時の1.3リッター自然吸気エンジンとしては驚異的な数値であり、おそらく170馬力から180馬力に迫るパワーを絞り出していたと考えられる。これは、熟練の職人によるシリンダーヘッドのポート研磨、高圧縮ピストンの採用、より過激なプロファイルを持つカムシャフト、そして完璧に同調が取られた2基の45mmウェーバーキャブレターの組み合わせによって達成された、まさに芸術の域に達するチューニングであった。

次なる章へ:遺産と後継者たち

パラダイムシフト:アルフェッタの登場

1970年代半ば、ジュリア・プラットフォームが熟成の極みに達する一方で、アルファロメオは次なる一手を用意していた。1972年にデビューした「アルフェッタ」である。その名は、かつてF1を支配したグランプリカーへのオマージュであり、その革新的な技術思想を受け継ぐものであった。
アルフェッタは、GTAが軽量化で実現した運動性能を、より高度なシャシーエンジニアリングによって完成させた。

トランスアクスル: 重いギアボックスとクラッチを車両後部に配置することで、理想的な50対50の前後重量配分を実現。これにより、コーナリング時の俊敏性と安定性が劇的に向上した。

ド・ディオン・アクスル: 重いディファレンシャルを車体側に固定するこのリアサスペンション形式は、「バネ下重量」を大幅に削減。これにより、タイヤは常に路面を捉え続け、卓越したグリップ性能を発揮した。

受け継がれた勝利の血統

この先進的なシャシーのポテンシャルを最大限に発揮したのが、V6エンジンを搭載したアルフェッタGTV6であった。このマシンは、GTAが築いたツーリングカーレースにおけるアルファロメオの覇権を完璧に引き継ぎ、ヨーロッパツーリングカー選手権(ETCC)において1982年から1985年にかけて前人未到の4年連続チャンピオンという金字塔を打ち立てたのである。