ALFA ROMEO ES30 (New SZ)
イル・モストロ・ディ・ミラーノ:アルファロメオSZ
鏡の中の怪物
1989年のジュネーブ・モーターショーの会場は、期待と興奮に満ちていた。アルファロメオのスタンドには、伝統的なイタリアン・スポーツカーの流麗な曲線を期待する人々が集まっていた。しかし、ベールが剥がされたとき、そこに現れたのは優美さとは対極にある存在だった。低く、幅広く、角張ったウェッジシェイプの塊。コードネーム「ES30」(Experimental Sportscar 3.0 litre)と名付けられたそのマシンは、伝統的な美の基準をすべて拒絶していた 。その姿はあまりにも衝撃的で、見る者に畏怖と困惑を同時に抱かせた。イタリアのプレスやエンスージアストたちは、この異形の存在にすぐさまニックネームを与えた。「イル・モストロ(Il Mostro)」-イタリア語で「怪物」を意味する言葉である 。
このニックネームは、当初はその異様で挑戦的なスタイリングに対する、半ば揶揄を含んだものであったかもしれない。フェラーリやランボルギーニのような優美さとは無縁の、まるでSF映画から飛び出してきたかのようなその姿は、多くの人々にとって受け入れがたいものだった。しかし、このアルファロメオSZは、単なる奇抜なデザインの産物ではなかった。それは、フィアット傘下に入り、存亡の危機にあったアルファロメオが、自らの魂を取り戻すために放った、計算され尽くした一撃だったのである。SZは、80年代のポストモダンデザインの潮流を汲んだ走る芸術作品であり、アルファロメオのアナログな過去とデジタルな未来を繋ぐ架け橋であり、そして何よりも、かつてサーキットを席巻した伝説的なレーシングカーの血統を現代に蘇らせるという野心的な試みであった。
ここでは、この「イル・モストロ」という神話と、その背後にあるマシンそのものを徹底的に解剖する。その名を冠するに至った歴史的血統を遡り、ES30の論争を呼んだ誕生の経緯を詳述し、そのユニークなエンジニアリングを分析、賞賛されるドライビングダイナミクスを評価し、そして今日、熱狂的なコレクターズアイテムへと昇華するまでの軌跡を追う。これは、自動車史において最も大胆不敵な一台、アルファロメオSZの完全なる物語である。
血統:「スプリント・ザガート」伝説の鍛造(1950年代~1960年代)
1989年に登場した「怪物」を理解するためには、まずその名に刻まれた「SZ」という二文字の重みを知る必要がある。この称号は、単なる記号ではない。それは、軽量化とエアロダイナミクスを武器に、レースで勝利を重ねた輝かしい歴史そのものであり、アルファロメオとカロッツェリア・ザガートという二つの偉大な名門の魂が交錯した証なのである。
パートナーシップの創生:アルファロメオとザガート
アルファロメオとザガートの協力関係は、1921年という早い時期にまで遡る。創業者ウーゴ・ザガートは、第一次世界大戦中に航空機製造で培った技術を自動車に応用しようと考えていた。当時の自動車が重くかさばるものであったのに対し、彼は航空機の胴体のように、軽量なアルミニウムの骨格と外皮で構成された車体を構想した。この「軽量化による高性能化」という哲学は、レースでの勝利を至上命題とするアルファロメオの思想と完璧に合致した。1920年代、両社の協力関係は深まり、アルファロメオが提供する強力なエンジンとシャシーに、ザガートが空気力学的に優れた軽量ボディを架装するという勝利の方程式が確立された。この共生関係から、ミッレミリアをはじめとする数々のレースで勝利を収める伝説的なマシンが誕生し、両社の名はイタリアのモータースポーツ史に深く刻み込まれていった。
元祖アイコン:ジュリエッタSZ(1959年~1961年)
「SZ」の名を不滅のものとした最初のモデルこそ、1959年に登場したジュリエッタSZ(スプリント・ザガート)である。その誕生は伝説的だ。ミッレミリア参戦中にクラッシュしたジュリエッタ・スプリント・ヴェローチェを、オーナーがザガートに持ち込み修復を依頼したことがきっかけとなった。ザガートは単に修復するだけでなく、より軽量で空力的なアルミニウムボディを架装。この個体がレースで驚異的な速さを見せたことから、アルファロメオは正式なカタログモデルとしての生産を決定したのである。
ジュリエッタSZは、まさにザガート哲学の結晶であった。職人が手作業で叩き出したオールアルミ製のボディ、アクリル製のサイドウィンドウなどの徹底した軽量化により、車重は800kgを切る785kgにまで削減された。これに、1,290ccながら100hpを発生するDOHCエンジンを組み合わせたSZは、当時の1.3リッターGTクラスにおいて無類の強さを誇り、サーキット、ヒルクライム、ラリーで数え切れないほどの勝利を収めた。
その進化の過程で、ジュリエッタSZは二つの異なるテールデザインを持つことになった。初期型は「コーダ・トンダ(Coda Tonda)」と呼ばれる丸みを帯びたテールを持ち、後期型では空力性能をさらに向上させるため、リアを直線的に切り落とした「コーダ・トロンカ(Coda Tronca)」と呼ばれるデザインが採用された。このコーダ・トロンカは、ザガートの代名詞とも言える革新的なエアロダイナミクス・ソリューションであり、後の多くのレーシングカーに影響を与えた。
究極の進化:ジュリアTZ & TZ2(1963年~1965年)
SZの成功を受け、アルファロメオとザガートはさらに過激なレーシングカーの開発に着手する。それが1963年に登場したジュリアTZ(チュボラーレ・ザガート)である。その名の通り、TZは鋼管スペースフレーム(チュボラーレ)シャシーを採用し、剛性を飛躍的に高めながら、さらなる軽量化を実現した。ボディはもちろんザガート製で、ジュリエッタSZで培われたコーダ・トロンカのデザインをさらに洗練させ、優れた空力性能を発揮した。TZはGTクラスのレースで大活躍し、アルファロメオの名声をさらに高めた。
そして1965年、その究極進化形であるTZ2が登場する。ボディはFRP(ガラス繊維強化プラスチック)製となり、車重はわずか620kgにまで削ぎ落とされた。エンジンは170馬力にまでチューンされ、最高速度は245km/hに達した。ロードカーとしても販売されたTZとは異なり、TZ2は純粋なレース仕様車としてわずか12台が生産されたのみであり、その存在は伝説となっている。
こうして、1950年代から60年代にかけて、SZ/TZの血統は「軽量化」「エアロダイナミクス」「レースでの勝利」という三位一体の哲学を確立した。それは、市販車をベースとしながらも、ザガートの手によって一切の妥協なくレーシングマシンへと昇華させるという、アルフィスティ(アルファロメオの熱狂的ファン)の魂を揺さぶる思想そのものであった。1989年の「怪物」が「SZ」の名を名乗るということは、この偉大なる遺産を継承するという重い宿命を背負うことを意味していたのである。
表1:クラシック「SZ/TZ」血統の概要
モデル名 | 生産年 | エンジン | ボディ素材 | 主要な特徴 | レースにおける功績 |
---|---|---|---|---|---|
ジュリエッタ SZ | 1959-1961 | 1,290cc 直列4気筒 DOHC | アルミニウム | コーダ・トンダ / コーダ・トロンカ | 1.3リッターGTクラスを席巻。数々のレースでクラス優勝。 |
ジュリア TZ | 1963-1965 | 1,570cc 直列4気筒 DOHC | アルミニウム | 鋼管スペースフレーム(チュボラーレ) | GTクラスで活躍し、ル・マン、セブリング、タルガ・フローリオ等で勝利。 |
ジュリア TZ2 | 1965-1966 | 1,570cc 直列4気筒 DOHC | FRP | 620kgという超軽量ボディ | 純粋なレーシングカーとして開発され、数々の国際レースで驚異的な走りを見せた。 |
この表が示すように、オリジナルのSZ/TZは、標準的な生産モデルをザガートがレース用に本質まで蒸留するという、明確な哲学の産物であった。その核心は、軽量化こそがパフォーマンスの源泉であるという信念にある。この純粋で妥協のないレーシングスピリットこそ、ES30プロジェクトが意図的に呼び起こそうとした「SZ」という名の遺産であった。しかし、新時代のSZは、この伝統的な哲学とは全く異なるアプローチで生み出されることになる。その対比こそが、この物語の核心的なドラマを形成するのである。
新時代の怪物:ES30の誕生(1986年~1989年)
1980年代半ば、アルファロメオは深い霧の中にいた。かつての栄光は色褪せ、ブランドは存亡の危機に瀕していた。この逆境の中から、後に「イル・モストロ」として知られることになる異形のスポーツカーが生まれる。それは、単なる新型車ではなく、ブランドの再生を賭けた大胆不敵な宣言であり、緻密に計算された企業戦略の結晶であった。
危機のアルファ、支配者のフィアット
1970年代から80年代にかけて、アルファロメオの経営は深刻な困難に直面していた。南イタリアでの雇用創出を目的として建設された新工場で生産されたアルファスッドは、低品質な鋼板と労働意欲の低い労働者の問題から錆問題が多発し、ブランドイメージを大きく傷つけた。製品ラインナップは旧態化し、かつてのスポーツカーメーカーとしての輝きは失われつつあった。
この状況を打開する転機が訪れたのは1986年。経営難に陥ったアルファロメオは、イタリアの巨大自動車メーカーであるフィアットに買収された。この買収劇ではアメリカのフォードも名乗りを上げていたが、最終的にフィアットが競り勝った。フィアットのCEOであったヴィットリオ・ギデッラは、アルファロメオを自社のスポーツカーラインナップを補完する最高の存在と位置づけ、その失われたスポッティング・ヘリテージを復活させるための象徴的なプロジェクトを構想した。その答えが、人々の度肝を抜くような、限定生産の「ハローカー」の開発であった。
プロジェクトES30:ブルータリストの宣言
1987年2月、コードネーム「ES30」(Experimental Sportscar 3.0 litre)と名付けられたプロジェクトが始動した。ギデッラの指令は明確だった。「挑発的な(provocative)」デザインを求め、アルファロメオの伝統である後輪駆動スポーツカーを、新しい技術を用いて再定義すること。この野心的な目標を達成するため、異例のデザインコンペティションが開催された。参加したのは、チェントロ・スティーレ・アルファロメオ(アルファロメオ社内デザインセンター)、チェントロ・スティーレ・フィアット(フィアット社内デザインセンター)、そして伝説的なカロッツェリアであるザガートの3チームであった。
最終的に選ばれたのは、最も過激で、最もブルータル(粗野で力強い)なフィアットチームの案だった。このデザインを主導したのは、フランス人デザイナーのロベール・オプロン。彼はシトロエンSMや未来的なコンセプトカー、シムカ・フルグールなどを手掛けたことで知られる、因習打破の巨匠であった。彼のデザイン哲学は、単に美しい車を作ることではなく、見る者に強烈な印象を与える「走る彫刻」を創造することにあり、ギデッラの求める「挑発」というテーマに完璧に応えるものであった。オプロンの初期スケッチを、アシスタントのアントニオ・カステッラーナが最終的なスタイリングへと磨き上げた。
このプロジェクトのもう一つの特徴は、その開発スピードにあった。承認から1989年のジュネーブ・モーターショーでの発表まで、わずか19ヶ月という驚異的な短期間で完了したのである。これを可能にしたのが、アルファロメオとしては初となるCAD/CAM(コンピュータ支援設計・製造)システムの全面的な導入であった。この新技術は、従来の手法に比べて開発期間を大幅に短縮し、設計変更や試作のプロセスを劇的に効率化した。
ザガートとの関係:作者を巡る問い
ES30が後に「SZ(スプリント・ザガート)」と名付けられたことから、多くの人々がこの車をザガートのデザインだと誤解している。しかし、これは事実ではない 2。デザインコンペでザガートの案は採用されず、ザガートの象徴である「ダブルバブル」ルーフもSZには存在しない。
では、なぜザガートの名が冠されたのか。その理由は、フィアットの巧みな戦略にある。ザガートはデザインではなく、生産とブランディングにおいて極めて重要な役割を担った。彼らはミラノ近郊のテラッツァーノ・ディ・ローにある工房で、ES30の最終組み立てを担当した。また、複合素材を用いた少量生産のノウハウを提供し、歴史的な「Z」のロゴと「SZ」という名前を使用することを許可した。これは、フィアットが自社のデザイン力で未来を示しつつも、ザガートという伝説的なパートナーの名を借りることで、歴史的な正当性とアルフィスティへの訴求力を確保するという、二重の戦略であった。新しい時代の幕開けを告げる衝撃的なデザインを、アルファロメオの栄光の過去と結びつけるための、見事な演出だったのである。
発表:「イル・モストロ」の誕生
1989年のジュネーブ・モーターショーで、ES30はついにその姿を現した。会場の反応は、賛否両論、というよりは困惑と衝撃に満ちていた。そのあまりに異様で攻撃的なスタイルは、従来の美の規範から大きく逸脱しており、プレスや一般の人々はすぐさまこの車に「イル・モストロ(怪物)」というニックネームを付けた。この呼び名は、フィレンツェで同時期に発生していた連続殺人事件の犯人の呼び名「フィレンツェの怪物(Il Mostro di Firenze)」を連想させるものでもあり、その不穏な響きは、車の持つただならぬオーラを一層際立たせた。
しかし、この「怪物」という評価は、デザインの失敗を意味するものではなかった。むしろ、それはプロジェクトの成功を証明していた。SZのデザインは、古典的な自動車の美しさで評価されるべきではない。それは、1980年代にミラノで花開いたポストモダンデザインの潮流、エットレ・ソットサス率いる「メンフィス・グループ」の家具や建築にも通じる、意図的な芸術表現なのである。その価値は、見る者を挑発し、既存の価値観に揺さぶりをかけ、常識を覆す力にある。ギデッラCEOが求めた「挑発」は、ロベール・オプロンの手によって完璧に具現化され、自動車デザインの歴史に消えることのない爪痕を残したのだ。
「怪物」の解剖学:テクニカル・ディープダイブ
アルファロメオSZの衝撃的な外観の下には、その過激なスタイリングに劣らぬほど独創的で、計算され尽くしたエンジニアリングが隠されている。それは、数十年にわたるアルファロメオの伝統的な技術と、レースで培われた最先端のノウハウ、そして新時代の設計思想が融合した、矛盾をはらみながらも驚異的な完成度を誇るメカニズムの集合体であった。
心臓部:ジュゼッペ・ブッソのV6傑作エンジン
SZの魂とも言えるのが、そのボンネットの下に収まる3.0リッターV6エンジンである。このエンジンは、フェラーリ出身の伝説的エンジニア、ジュゼッペ・ブッソによって設計されたことから、「ブッソV6」の愛称で知られている。1979年にアルファ6に搭載された2.5リッターSOHC 12バルブユニットとしてデビューして以来、その官能的なサウンドと滑らかな回転フィールで多くのファンを魅了してきた。
SZに搭載されたのは、この傑作ユニットの3.0リッター版(2,959 cc)である。ベースとなったのはアルファ75に搭載されていたエンジンだが、SZ用には特別なチューニングが施された。より高性能なカムシャフト、専用設計のインテークおよびエキゾーストマニホールド、そしてボッシュ製モトロニックML 4.1燃料噴射システムの採用により、最高出力は210 PS(154 kW)/6,200 rpm、最大トルクは245N·m/4,500 rpmを発生した。このエンジンは、その性能もさることながら、低回転域のバリトンから高回転域のオペラのような咆哮へと変化するサウンドが特徴で、「アレーゼのヴァイオリン」とも呼ばれ、SZのドライビング体験の中核をなしている。なお、開発期間の短さから、当時開発中だった24バルブ版の搭載は見送られた。
シャシーとドライブトレイン:トランスアクスルの伝統
SZの基本骨格は、アルファロメオ75の鋼鉄製シャシーを改良したものである。このプラットフォームのルーツは、1972年のアルフェッタにまで遡る、アルファロメオ伝統のFRレイアウトを受け継いでいる。その最大の特徴は、トランスアクスル方式の採用にある。5速マニュアルギアボックスをディファレンシャルと一体化してリアアクスル側に配置することで、フロントヘビーになりがちなFRレイアウトでありながら、前後重量配分を56:44(資料によっては50:50とも)という理想的なバランスに近づけている。
リアサスペンションには、ド・ディオンアクスルが採用されている。これは、左右の車輪を剛結したアクスルビームと、シャシー側に固定されたディファレンシャルを分離する形式で、路面追従性に優れ、タイヤを常に路面に対して垂直に保つことができる。さらにSZでは、リアのブレーキディスクとキャリパーをディファレンシャルの両サイドに移設するインボード方式を採用。これにより、サスペンションの動きに直接影響する「バネ下重量」を大幅に軽減し、路面追従性とグリップ性能を極限まで高めている。これらはすべて、数十年にわたりアルファロメオがレースと市販車で磨き上げてきた、ハンドリングを最優先する技術の集大成であった。
ボディとエアロダイナミクス:デジタルの設計、物理的な剛性
SZのボディは、その時代の最先端技術を駆使して作られた。イタリアのカープラスト社とフランスのストラティム社が製造した熱可塑性射出成形による複合素材(Modar樹脂)のパネルを、鋼鉄製のフレームに接着するという革新的な工法が用いられている。
しかし、ここで一つのパラドックスが生じる。最新の複合素材を使いながらも、SZの車重(1250kg〜1280kg)は、鋼鉄ボディのアルファ75よりもわずかに重かったのである。これは、SZのボディパネルが軽量化ではなく、別の目的のために設計されたことを示唆している。その目的とは、卓越した「ねじり剛性」の確保であった。強固に接着された複合素材パネルは、シャシーと一体化して極めて剛性の高いモノコック構造を形成し、後述するレース由来のサスペンションがその性能を100%発揮するための、揺るぎない土台となった。
また、その角張った外観からは想像もつかないが、SZの空力性能は驚異的であった。CAD/CAMによるシミュレーションと風洞実験を繰り返すことで、空気抵抗係数(Cd値)はわずか0.30という、当時のスポーツカーとして極めて優れた数値を達成した。さらに、車体下面を流れる空気を制御することで、ロードカーとしては珍しく、高速走行時に車体を路面に押し付ける本物のダウンフォースを発生させた。悪名高い広いパネルギャップでさえ、空気の流れを制御するための機能的なデザインであったと主張されている。
サスペンションとハンドリング:ジョルジオ・ピアンタの魔法
SZの真骨頂である驚異的なハンドリング性能は、一人の天才エンジニアの存在なくしては語れない。その名はジョルジオ・ピアンタ。ランチアやフィアットのラリーチームを率いて世界選手権を制した伝説のチームマネージャーである(当館に展示しているALFA ROMEO 155DTMやデルタS4にも深いかかわりがある)。彼は、アルファ75が参戦していたグループA/IMSAレースカーのサスペンションを、SZのために最適化した。
フロントには、75のトーションバーに代わってダブルウィッシュボーン式サスペンションを採用。リアにはワッツリンク付きのド・ディオンアクスルを組み合わせた。ダンパーはオランダのKONI製油圧式で、通常のゴムブッシュの代わりに、よりダイレクトな感触を伝えるユニボール(ピロボール)ジョイントが多用された。このレース直系の足回りは、当時のテストで最大1.1Gから1.4Gという、市販車としては信じがたいほどの横Gを記録することを可能にした。
さらに、SZには極端に低い車高を補うためのユニークな機能が備わっていた。室内のボタン操作で車高を50mm上昇させることができる油圧式リフトシステムである。これは、純粋なパフォーマンス追求と日常での実用性を両立させるための、巧妙な解決策であった。
SZのエンジニアリングは、まさに矛盾の傑作と言える。それは、古いシャシー構造と、先駆的なデジタルデザインの融合であり、軽量化という伝統的なSZの哲学を覆す重い複合ボディが、逆にレース由来のサスペンションの性能を最大限に引き出すという逆説的な構造を持つ。それは、様々な要素が互いの弱点を補い、長所を増幅させ合うことで、個々の部品の総和を遥かに超える驚異的なドライビングマシンを生み出した、インテリジェントな妥協の産物なのである。
表2:アルファロメオ SZ (ES30) & RZ 技術仕様
仕様項目 | アルファロメオ SZ | アルファロメオ RZ |
---|---|---|
エンジン | ||
コード | AR 61501 | AR 61501 |
形式 | 60度V型6気筒 SOHC 12バルブ | 60度V型6気筒 SOHC 12バルブ |
排気量 | 2,959 cc | 2,959 cc |
最高出力 | 210 PS (154 kW) @ 6,200 rpm | 210 PS (154 kW) @ 6,200 rpm |
最大トルク | 245 N·m @ 4,500 rpm | 245 N·m @ 4,500 rpm |
ドライブトレイン | ||
レイアウト | フロントエンジン・リアドライブ(トランスアクスル) | フロントエンジン・リアドライブ(トランスアクスル) |
ギアボックス | 5速マニュアル | 5速マニュアル |
シャシー | ||
形式 | 鋼鉄製フレーム | 強化鋼鉄製フレーム |
ボディ素材 | 熱可塑性複合素材(Modar) | 熱可塑性複合素材(Modar) |
サスペンション | ||
フロント | ダブルウィッシュボーン | ダブルウィッシュボーン |
リア | ド・ディオンアクスル(ワッツリンク付) | ド・ディオンアクスル(ワッツリンク付) |
ダンパー | Koni製 油圧式(車高調整機能付) | Koni製 油圧式(車高調整機能付) |
ブレーキ | ||
フロント | ベンチレーテッドディスク | ベンチレーテッドディスク |
リア | インボード・ディスク | インボード・ディスク |
ホイール & タイヤ | ||
フロント | 205/55 ZR 16 | 205/55 ZR 16 |
リア | 225/50 ZR 16 | 225/50 ZR 16 |
寸法 | ||
全長/全幅/全高 | 4,060/1,730/1,310 mm | 4,060/1,730/1,300 mm |
ホイールベース | 2,510 mm | 2,510 mm |
重量 | 約1,250 kg - 1,280 kg | 約1,380 kg |
パフォーマンス | ||
0-100km/h | 約7.0 秒 | 約6.7 秒 |
最高速度 | 245 km/h | 230 km/h |
最大横G | 1.1 G - 1.4 G | N/A |
ドライビング体験:怪物の調教
アルファロメオSZは、その見た目やスペックシートだけでは語り尽くせない。この車の真価は、ステアリングを握り、エンジンに火を入れ、コーナーの先にノーズを向けた瞬間にこそ明らかになる。それは、現代の車が失ってしまった、機械と人間との濃密な対話、すなわち「アナログなドライビング」の純粋な喜びを凝縮した体験である。
ステアリングの先に:アナログの傑作
SZを運転した者は、口を揃えてそのピュアでフィルターのないドライビングフィールを賞賛する。ステアリングは極めてシャープで正確無比。わずかな入力にも即座に反応し、まるでステアリングホイールとタイヤが直結しているかのようなダイレクト感に満ちている。現代の多くのスポーツカーに見られるような、センター付近の曖昧さは皆無だ。その完璧な重み付けとレスポンスは、ドライバーに絶対的な自信を与える。
そして、コーナーに差し掛かると、SZはその本性を現す。ジョルジオ・ピアンタが手掛けたシャシーは、ドライコンディションではまるで路面に吸い付くかのように、驚異的なグリップを発揮する。フラットな姿勢を保ったまま、ドライバーの予想を遥かに超えるスピードでコーナーを駆け抜けていく様は、まさに「コーナリングマシン」の名にふさわしい。この卓越したハンドリングを実現するため、SZは意図的にABSやトラクションコントロールといった電子制御デバイスを一切排除している。これにより、車の挙動はすべてドライバーの腕に委ねられる。それは挑戦的であると同時に、マシンを完全にコントロールする喜びに満ちた、熟練ドライバーにとってこの上なくやりがいのある体験なのである。
音と激情:五感を揺さぶる肖像
SZのドライビングは、五感すべてで味わうものである。コックピットに収まると、ドライバー側に向けて角度がつけられたダッシュボードと、柔らかなタンレザーのシートが迎えてくれる。極端に細いAピラーと広大なガラスエリアがもたらす前方視界は驚くほど良好で、車両感覚を掴みやすい。
そして、イグニッションキーを捻ると、ブッソV6が目を覚ます。アイドリングでは重厚なバリトンを奏で、アクセルを踏み込むと、その音色はドラマティックに変化する。4,000rpmあたりでカムに乗り、そこからレッドラインの6,500rpmに向けて、悲哀を帯びた官能的な咆哮へと変わっていく。このオペラのようなサウンドは、ドライバーの心を高揚させ、アドレナリンを沸き立たせる、SZの紛れもない特徴の一つだ。
癖と個性:欠点ある傑作
しかし、SZは完璧なマシンではない。むしろ、その数々の「欠点」こそが、この車の抗いがたい個性を形成している。
ブレーキ: 最も多くのドライバーが指摘するのが、ブレーキの感触である。ペダルを踏み込んでも初期の反応が鈍く、「死んだようなフィール」と評されることが多い。強く踏み込めば十分な制動力を発揮するものの、その操作感は他のコントロール類の洗練された感触とは対照的に、無骨で扱いにくい。
ギアボックス: リアに搭載されたトランスアクスルを、長いケーブルで操作するギアボックスは、ストロークが長く、急いで操作することを嫌う 31。シフトチェンジには、「一拍置く」ような、丁寧でリズミカルな操作が求められる。
乗り心地: レース由来の硬いサスペンションとユニボールジョイントは、路面のあらゆる凹凸を容赦なくキャビンに伝える。快適なグランドツアラーとは言い難い、スパルタンな乗り心地である。
製造品質: 手作業による少量生産のイタリア車らしく、その製造品質は独特の「味」を持っている。特に、「笑えるほど広い」とまで言われるパネルギャップはSZの代名詞であり、完璧な精度を求める現代の基準からすれば、欠点以外の何物でもない。
興味深いことに、これらの1990年当時に「欠点」と見なされた要素は、時代を経ることで「個性」や「魅力」へとその評価を変化させてきた。現代の車がデジタル化され、ドライバーと路面の間のあらゆる感覚がフィルター越しのものになるにつれて、SZの持つ粗削りで、機械的で、すべてをドライバーに委ねるその性質が、逆に「純粋なアナログ体験」として渇望されるようになったのである。ABSがないからこそ得られるタイヤからの直接的なフィードバック、扱いにくいブレーキやギアボックスを乗りこなす達成感。それらはすべて、現代の車が失ってしまった、人間と機械との濃密な対話の一部となっている。SZは、その「欠点」ゆえに、時代を超えて愛される「欠点ある傑作」としての地位を確立したのだ。
怪物の系譜:派生モデルと遺産
アルファロメオSZの物語は、クーペモデルだけで完結しない。その強烈な個性を引き継ぎ、あるいはその存在によって影響を受けたモデルたちが、この「怪物」の系譜をさらに豊かにしている。オープンエアの快感を加えたロードスターから、サーキット専用の純血レーサー、そして後世のデザインに与えた影響まで、SZが残した遺産は多岐にわたる。
ロードスター:アルファロメオRZ(1992年~1994年)
SZクーペの生産終了後、1992年にそのオープンモデルであるRZ(ロードスター・ザガート)が登場した。一見するとSZの屋根を切り取っただけのようだが、その実、両車の間で共有されるボディパネルはフロントフェンダーとトランクリッドのみという、全くの別物であった。
RZは、SZのフィードバックを元にいくつかの改良が加えられていた。フロントバンパーのデザインが変更され、最低地上高が確保されたほか、SZの特徴であったボンネット上のアグレッシブなリッジ(峰)は滑らかな形状になった。インテリアもセンターコンソールのデザインが変更され、ソフトトップの収納スペースを覆う形状となっている。また、SZがほぼ赤一色だったのに対し、RZでは赤、黄、黒の3色が標準で用意され、ごく少数ながら銀や白の個体も存在した。
しかし、オープン化には代償も伴う。屋根を失ったことによる剛性低下を補うため、シャシーは大幅に補強され、その結果、車重は約120kgも増加した。この重量増はパフォーマンスに影響を与え、ハンドリングもクーペの鋭敏さに比べると、ボディの揺れ(スカットルシェイク)を感じさせる、ややマイルドなものとなった。商業的にも、RZはSZほどの成功を収めることはできなかった。当初350台の生産が計画されていたが、需要が伸び悩み、さらに生産を担当していたザガートが経営難に陥ったこともあり、最終的な生産台数は278台から284台に留まった。
レーサー:SZトロフェオ(1993年)
SZのポテンシャルをサーキットで最大限に引き出すために作られたのが、極めて希少なSZトロフェオである。これは、1993年にヨーロッパで開催されたワンメイクレースシリーズのために開発されたモデルだ。
トロフェオ仕様は、公道走行可能なSZをベースに、レース用のモディファイが施されていた。インテリアは不要な装備が取り払われ、レーシングバケットシートとロールケージを装備。足元にはOZレーシング製のホイールが装着され、エンジンやブレーキも強化されていた。わずか13台程度しか製造されなかったと言われるこのモデルは、F1モナコグランプリのサポートレースなどにも登場し、その戦闘的な姿を披露した。今日では、公道走行も可能な究極のコレクターズアイテムとして、非常に高い価値を持っている。
永続する影響:怪物の影
SZがアルファロメオの歴史に残した影響は、単なる限定モデルの枠を超えている。その最も明白な遺産は、デザインに見ることができる。SZの特徴的な片側3連の6つのヘッドライトというデザインキューは、後に登場したアルファロメオ・ブレラや159といったモデルに直接的なインスピレーションを与え、視覚的な血統の繋がりを示している。
また、SZは、2006年に8Cコンペティツィオーネが登場するまでの十数年間、アルファロメオ最後の後輪駆動スポーツカーであった。これは、SZがブランドにとって一つの古典的なエンジニアリング時代の終わりを告げる存在であったことを意味する。
商業的には成功とは言えなかったかもしれないが、SZプロジェクトが示した大胆不敵なリスクテイクの精神は、アルファロメオのブランドイメージを再活性化させる上で計り知れない役割を果たした。それは、アルファロメオのラインナップには、論理や効率だけでは測れない、感情に訴えかける大胆なクルマが必要であることを証明したのである。この哲学は、後の8Cコンペティツィオーネや、現代のジュリアSWBザガートといった特別なモデルへと受け継がれ、SZが単なる一過性の「怪物」ではなく、ブランドの魂を未来へと繋ぐ重要な触媒であったことを物語っている。
生産台数
アルファロメオ SZ: 当初の計画であった1,000台をわずかに上回る、合計1,036台が生産された。そのほとんどが「ロッソ・アルファ」と呼ばれる赤色にグレーのルーフ、そしてタン(淡い茶色)のレザー内装という組み合わせであった。唯一の例外として、アンドレア・ザガートのために特別に製造された黒色の個体が存在する。
アルファロメオ RZ: クーペほどの需要はなく、計画されていた350台には届かず、最終的な生産台数は278台から284台に留まった。RZではカラーバリエーションが広がり、赤、黄、黒が標準色として用意された。
怪物以上の存在
アルファロメオSZは、単なるスポーツカーという枠には収まらない、多層的で複雑な存在である。それは、フィアットによる買収後のアルファロメオ再生の狼煙であり、1980年代のポストモダンデザインを体現した大胆な芸術的声明であり、そして古い伝統と新しい技術を見事に融合させ、忘れがたいドライビング体験を創造したエンジニアリングの傑作であった。
当初、その挑戦的な外観から与えられた「イル・モストロ(怪物)」というニックネームは、時を経てその意味合いを変化させた。今やその名は、単に異形の姿を指すのではなく、路面に喰らいつく怪物的なグリップ性能と、常識を覆す規格外の個性を称える、愛情のこもった敬称としてエンスージアストたちに受け入れられている。
この車の商業的な成功は限定的であった。しかし、その真の成功は、販売台数ではなく、ブランドの遺産に刻まれた影響の深さによって測られるべきである。SZは、アルファロメオが再び感情に訴えかける大胆なクルマを創り出すことができると証明し、その後の8Cコンペティツィオーネのような特別なモデルへの道を切り開いた。そのユニークなデザインと妥協なきドライビングへのこだわりは、長年の過小評価の時代を経て、今日では熱狂的なカルト的人気を博し、コレクターズマーケットで確固たる地位を築いている。
最終的に、アルファロメオSZ(ES30)は、自動車における大胆さの記念碑として存在する。それは、車が愛されるために必ずしも伝統的な美しさを必要としないこと、そして真のドライバーズカーとは、その完璧さによってではなく、ドライバーと機械との間に生まれる生の、感情的な繋がりによって定義されることを証明している。SZは、その伝説的な祖先の「魂」は受け継ぎながらも、その製法は全く新しいものであった。そして、アルファロメオの波乱に満ちた歴史の中で、最も魅力的で、最も複雑で、そして最も忘れがたい一章として、これからも語り継がれていくだろう。