四国自動車博物館

206S

フェラーリ 206 S: 悲劇から生まれた不朽の傑作

息子の遺志、伝説の誕生

フェラーリ 206 Sの物語は、単なるレーシングカーの技術的解説に留まらない。それは悲劇、父性愛、そして戦略的必然性が織りなす、感動的な叙事詩である。このマシンの核心には、エンツォ・フェラーリの愛息アルフレード・「ディーノ」・フェラーリの短い生涯と、彼が遺したエンジニアリングの遺産が存在する。

記念碑としてのエンジン

物語は、エンツォ・フェラーリの希望の星であった息子、アルフレードから始まる。彼は才能ある機械エンジニアであり、フェラーリのフォーミュラ2(F2)参戦のためにV型6気筒エンジンの構想を熱心に推進していた。しかし、ディーノはデュシェンヌ型筋ジストロフィーのため、1956年にわずか24歳という若さでこの世を去った。彼の死後、エンツォは息子の構想を実現させることを決意する。こうして生まれたV6エンジン、そしてそれを搭載する車には、息子の愛称「ディーノ」の名が与えられ、彼のサインを模したエンブレムが飾られた。これは、悲しみに暮れる父が息子に捧げた、永遠の記念碑であった。
このエンジンの開発は、単なる感傷的なプロジェクトではなかった。ディーノの初期構想は、当時フェラーリのコンサルタントを務めていた伝説的エンジニア、ヴィットリオ・ヤーノの手によって具現化された。ヤーノはアルファロメオで数々の傑作エンジンを生み出した巨匠であり、彼の経験とディーノの革新的なアイデアの融合が、このユニークなパワーユニットを誕生させたのである。有望な若き才能と熟練の巨匠によるこの共同作業は、エンジンにさらなる歴史的深みを与えている。

65度V6:ユニークな技術的解答

「ディーノV6」として知られるこのエンジンは、そのバンク角において自動車史上でも特異な存在である。一般的なV6エンジンが60度や90度のバンク角を採用するのに対し、ディーノV6は65度という他に類を見ない角度を持つ。この選択は恣意的なものではなく、明確な技術的意図に基づいていた。
65度という角度は、シリンダーバンク間に吸気ポートやキャブレター(後のインジェクションシステム)を配置するための最適な空間を生み出すために選ばれた。これにより、吸気効率を最大化することができたのである。この角度が必然的に生み出す不等間隔爆発の問題は、クランクピンをオフセットさせるという、当時としては高度な手法で解決された。このエンジンは1957年のF2マシン「ディーノ156 F2」で初めて実戦投入され、その後も166 Pや206 SPといったスポーツプロトタイプで絶えず改良が重ねられていった。

フィアットとの提携:必然の結託

206 Sの物語は、フェラーリの歴史における転換点、すなわちフィアットとの提携と密接に結びついている。1967年シーズンから、F2のレギュレーションが変更され、エンジンは最低500基が生産された市販車のシリンダーブロックをベースにすることが義務付けられた。
小規模な少量生産メーカーであったフェラーリにとって、この生産台数を単独で達成することは不可能であった。ディーノV6エンジンをF2で継続して使用するため、エンツォ・フェラーリはイタリア最大の自動車メーカーであるフィアットとの提携を決断する。この提携により、フィアットは自社のフロントエンジン・スポーツカーである「フィアット・ディーノ・スパイダー/クーペ」に、フェラーリは自社のミッドシップ・ロードカー「ディーノ206 GT」にこのエンジンを搭載し、両社合わせて500基のホモロゲーション規定をクリアすることが可能となった。この戦略的決断は、フェラーリのレース活動を継続させる上で不可欠であり、その後のビジネスモデルを根本から変えるものであった。
このフィアットとの提携の背景には、206 S自体の生産過程で露呈したフェラーリの脆弱性があった。1966年、フェラーリは206 Sをスポーツカー・カテゴリー(グループ4)で戦わせるため、50台の生産を計画していた。しかし、イタリア全土を巻き込んだ労働争議の煽りを受け、生産はわずか19台(うち完成車両は16台)で打ち切られてしまう。F2エンジンのための500基という途方もない数字を前に、わずか50台のレーシングカーすら生産できないという現実は、エンツォ・フェラーリにとって自社の工業生産能力の限界を痛感させる出来事であったに違いない。この206 Sの苦難に満ちた誕生は、フェラーリが抱えていた構造的な問題の兆候であり、フィアットとの提携はその問題を解決するための、もはや戦略的選択ではなく、生存のための必然であったと言える。

ミニチュアの傑作:デザインとエアロダイナミクス

フェラーリ 206 Sの美しさは、単なる偶然の産物ではない。それは機能性と官能性が見事に融合した、計算され尽くした造形美である。この章では、そのデザインの起源、兄貴分である330 P3との関係、そしてレーシングカーの製作者とロードカーのデザイナーという重要な区別について深く掘り下げていく。

カロッツェリア・スポーツカーズによるコーチビルド

官能的で流麗なボディを持つレーシングカー、206 Sは、しばしば誤解されるが、ピニンファリーナによって製造されたものではない。そのボディを実際に手掛けたのは、ピエロ・ドロゴが率いるモデナの専門工房、カロッツェリア・スポーツカーズである。ドロゴの工房は、この時代のスクーデリア・フェラーリにとって重要なパートナーであり、より大型の330 P3やP4といったプロトタイプのボディ製作も担当していた。デザイン自体は、フェラーリのエンジニア(エドモンド・カゾーリなど)とカロッツェリアの職人たちとの共同作業によって生み出されることが多かった。ボディは軽量なアルミニウムパネルとグラスファイバーの組み合わせで構成され、セミモノコックシャシーにリベットで留められることで、パフォーマンスを最大限に引き出す構造となっている。

P3のミニチュア:統一されたデザイン言語

206 Sは、一貫して「330 P3をスケールダウンしたもの」と評される。これは、1966年シーズンのフェラーリのプロトタイプ・フリートにおける、意図的かつ統一されたデザイン哲学を反映している。低くワイドなフロントのエアインテーク、豊満で筋肉質なホイールアーチ、広大なラップアラウンド・ウインドスクリーン、そして全体を貫く流れるような有機的フォルムといった主要な視覚的特徴は、両車で共有されている。この視覚的な繋がりは、2リッターの小型マシンを、フェラーリの最高峰である大排気量耐久レーサーと直接結びつけ、その格を瞬時に引き上げた。そのデザインは機能的にも洗練されており、インボードに配置されたリアブレーキを冷却するためのショルダーマウント式エアインテークや、ラジエーターからの熱気を排出するためのノーズのベントなど、すべてが性能向上のために計算されていた。

ピニンファリーナのコンセプトとロードカーの誕生

ドロゴが製作したレーサーと並行して、カロッツェリア・ピニンファリーナはミッドシップ・ディーノに対する独自のビジョンを育んでいた。その始まりは、1965年のパリ・サロンで発表された「ディーノ・ベルリネッタ・スペチアーレ」である。これは、アルド・ブロヴァローネがデザインし、レーシングシャシー上に製作された、息をのむほど美しいコンセプトカーであった。レンズ状のフォルムと革新的な凹面リアウインドウを持つこのコンセプトカーこそが、後の市販モデルであるディーノ 206 GTおよび246 GTの真のスタイリングの原点となった。ブロヴァローネのデザインは、後にレオナルド・フィオラヴァンティによって最終的な生産モデルへと洗練されていく。
純粋なレーサーのためのドロゴと、ロードカーのコンセプトを追求するピニンファリーナという、二つの並行したデザインの流れが存在したことは、極めて重要な点である。最終的なロードカーは206 Sレーサーの単なるコピーではなく、その精神とプロポーションを、ピニンファリーナのデザイナーたちが巧みに翻訳し、インスピレーションを得て生み出した芸術作品なのである。
この二つのデザインの流れを理解することは、ディーノ伝説におけるドロゴとブロヴァローネ、それぞれの役割を正しく評価する鍵となる。ドロゴの206 Sは、Pシリーズの進化形として、純粋で機能的なコンペティションの美を追求した。一方、ブロヴァローネのピニンファリーナ・コンセプトは、ミッドシップというテーマに対する、より抽象的でハイファッションな解釈であった。206 Sレーサーは、その後のロードカーに魂と機械的なパッケージを提供し、ブロヴァローネの仕事は、商業的に成功し、時代を超えて愛される象徴的な顔を与えたのである。

生産:スパイダー/ベルリネッタ

前述のストライキのため、最終的には19台しかシャシーを製造することはできなかった。完成した19台のシャシーのうち、シンプルなロールフープとドライバーの後ろに低い垂直スクリーンを備えていた、オープンコクピットのスパイダーが13台。のこり3台は、クローズドルーフのベルリネッタとして製造され、エンジンベイを覆うファストバックのリアスクリーンが特徴であった。残りの3台のシャシーは、ピニンファリーナによってコンセプトカーとして架装された。

物語の核心:65度V6とその技術的基盤

ここでは、フェラーリ 206 Sの先進的なシャシーから、宝石のように精巧で高回転型のV6エンジンに至るまで、そのエンジニアリングを徹底的に分析する。パワートレインの急速な進化と、手作業で製造されたコンペティションカー固有のバリエーションにも焦点を当てる。

シャシーとサスペンション:軽量化のフォーミュラ

「ティーポ585」と名付けられたシャシーは、先行する166 Pや206 SPプロトタイプから発展した、洗練されたセミモノコック構造であった。溶接された鋼管チューブラーフレームを核とし、応力外皮として機能する合金パネルとグラスファイバーパネルをリベットで接合することで、さらなる剛性を確保していた。
サスペンションは、前後ともにダブルウィッシュボーン、コイルスプリング、テレスコピック・ショックアブソーバーを備えた完全独立懸架という、古典的なレーシングカーの構成を採用していた。
この車の決定的な特徴は、その驚異的な軽さにあった。公式な乾燥重量は580 kgとされているが、スパイダーなどの一部のバリエーションはさらに軽量であった可能性もある(ある資料では532 kgと記載されている)。この徹底した軽量化こそが、206 Sの最大の武器であった。

エンジンの進化:絶え間ない変化の状態

総排気量1986.60 cc、オールアルミ製、ドライサンプ潤滑方式のDOHC V6エンジンは、レッドラインが9000 rpmに達する高回転型の傑作であった。その開発は迅速かつ継続的に行われた。初期のバージョンは3基のウェーバー40 DCNキャブレターを使用していたが、ワークスカーはすぐに出力とレスポンスの向上を目指し、ルーカス製の機械式燃料噴射装置の実験を開始した。
点火システムも同様に多様であった。信頼性のためにシンプルな1気筒あたり1プラグのシステムが開発された一方で、より強力なワークスエンジンでは、高回転域での完全燃焼を確保するためにツインプラグ点火が採用された。さらにフェラーリは、先進的なバルブトレインの実験も行った。標準は1気筒あたり2バルブであったが、1967年には実験的な3バルブのシリンダーヘッドが導入されている。
これに伴い、最高出力も様々であった。標準的なキャブレター仕様で218〜220馬力と公表されていたが、ツインプラグと燃料噴射を備えたヒルクライム仕様では約230馬力、後期の実験的なユニットではさらに高い出力を発生した。

206 S 諸元仕様
エンジン65度V型6気筒、ミッドシップ縦置き
総排気量1986.60 cc
ボア x ストローク86×57 mm
バルブ機構DOHC、1気筒あたり2バルブ(標準)*1
燃料供給ウェーバー40 DCNキャブレターまたはルーカス機械式燃料噴射 *2
点火方式1気筒あたりシングルプラグまたはツインプラグ *3
潤滑方式ドライサンプ
圧縮比11:1
最高出力220 hp (162 kW) @ 9000 rpm *4
シャシーフォーミュラー型 Tipo 585セミモノコック
フレーム鋼管チューブラー
サスペンション前後独立懸架、ダブルウィッシュボーン
ブレーキ4輪ディスク
ステアリングラック&ピニオン
ボディタイプ2座席スパイダーまたはベルリネッタ
ホイールベース2280 mm
全長 x 全幅 x 全高3875×1680×985 mm *5
乾燥重量580 kg *6
トランスミッション5速マニュアル
クラッチツインプレート
最高速度約270 km/h

注釈:
*1 1967年に実験的な3バルブヘッドが導入された。
*2 ワークスカーを中心に燃料噴射仕様が存在した。
*3 より高出力なワークスエンジンにはツインプラグが採用された。
*4 燃料噴射とツインプラグを備えた仕様では230馬力以上を発生したと報告されている。
*5 手作業による製造のため、個体によって寸法のわずかな差異が存在する。
*6 スパイダー仕様はさらに軽量な場合があった。

このマシンのエンジニアリング哲学全体は、そのパワーウェイトレシオという一点に集約することができる。エンジンの絶え間ない開発は、単に絶対的な馬力を追求するものではなく、可能な限り軽量なパッケージに、最大限の有効なパワーを詰め込むための闘いであった。乾燥重量580 kgに対して220馬力以上というスペックは、1トン当たり約379馬力という驚異的なパワーウェイトレシオを生み出す。特筆すべきは、この数値が、約60年後に登場した2024年のフラッグシップモデル、フェラーリ 12Cilindri(ドーディチ チリンドリ)に匹敵するものであるという事実である。この視点は、206 Sの技術的議論全体を再定義する。この車は、同じサーキットを走った7.0リッターのフォードGT40のように、圧倒的なパワーで勝利するために設計されたのではない。それは、まるで外科医のメスのように、精密さで勝負するために作られたのである。ニュルブルクリンクやタルガ・フローリオのようなテクニカルなコースでの成功と、ル・マンのようなパワーサーキットでの失敗は、この唯一無二の設計思想がもたらした、直接的かつ予測可能な結果であった。軽量なセミモノコック、高回転だが小排気量のエンジンといった技術的選択は、すべてこの中心的な原則に奉仕していたのである。

対照的な戦歴:サーキットでの栄光と悲運

ここでは、206 Sのコンペティションキャリアを鮮やかに描き出す。ホモロゲーション取得の失敗がもたらした影響を分析し、主要なレースにおけるマシンの長所と短所を浮き彫りにする。

ホモロゲーションというハンディキャップ

フェラーリは当初、206 SをFIAのグループ4(スポーツカー)カテゴリーに参戦させるつもりであった。このカテゴリーの公認(ホモロゲーション)を得るには、50台の車両を生産する必要があった。しかし、イタリアの労働争議が原因で生産はわずか19台で中止されてしまった。
この結果、206 Sはより改造範囲の広いグループ6(プロトタイプ)カテゴリーで戦うことを余儀なくされた。これは、2.0リッターの小型マシンが、ポルシェやシャパラル、そしてフェラーリ自身の330 P3のような、専用設計された、しばしばより大排気量のプロトタイプと直接対決しなければならないことを意味した。このハンディキャップこそが、1966年シーズンのドラマの中心となる。

1966年世界スポーツカー選手権:「もしも」のシーズン

セブリングでのデビュー: 206 Sは1966年のセブリング12時間レースでデビューを飾った。ルドヴィコ・スカルフィオッティとロレンツォ・バンディーニが駆る唯一のワークスカーは、総合5位、プロトタイプクラス2位という素晴らしい成績を収め、幸先の良いスタートを切った。
モンツァでの苦戦: パワーが要求されるモンツァ1000kmレースでは、ディーノ勢は苦戦を強いられた。エントリーした4台のうち、ボンドゥラント/ヴァッカレラ組の1台はプラクティスでクラッシュ。レースではワイパーの不調にも悩まされ、バンディーニ/スカルフィオッティ組が獲得した10位が最高位という、期待外れの結果に終わった。
タルガ・フローリオでの凱歌: シチリア島の過酷な公道レース、タルガ・フローリオでは状況が一変した。マシンの俊敏性が最大限に発揮され、ギシェ/バゲッティ組のベルリネッタが見事総合2位に入賞。ハンドリング重視のコースにおけるマシンのポテンシャルの高さを証明した。
ニュルブルクリンクでの頂点: 206 Sのキャリアにおける最高の瞬間は、難コースとして名高いニュルブルクリンク1000kmレースで訪れた。スカルフィオッティ/バンディーニ組とロドリゲス/ギンサー組のワークス・スパイダーが、フィル・ヒル/ヨアヒム・ボニエ組の強力なシャパラル2Dに次ぐ総合2位と3位を独占したのである。2リッタークラスでのワンツーフィニッシュは、このマシンのシャシーとハンドリングがいかに優れていたかを雄弁に物語る結果であった。
ル・マンでの惨事: 一転して、ル・マン24時間レースは壊滅的な結果に終わった。エントリーした3台の206 Sは、リアアクスルのトラブルや油圧低下といった機械的故障により、いずれもレース序盤でリタイアを喫した。この事実は、24時間という長丁場の耐久レースがもたらす特有のストレスに対し、マシンがまだ脆弱であったことを浮き彫りにした。

ヒルクライムとプライベーターの栄光

主要な耐久レースの舞台裏で、206 Sは真の天職を見出していた。それは、ヨーロッパ・ヒルクライム選手権である。この競技では、マシンの軽量さと俊敏なハンドリングが絶対的なアドバンテージとなり、ルドヴィコ・スカルフィオッティをはじめとするドライバーたちが数多くの勝利と表彰台を獲得した。
プライベーターチームもまた、このマシンで大きな成功を収めた。英国のマラネロ・コンセッショネアズから参戦したマイク・パークスはブランズ・ハッチで2リッタークラスを制し、「パム」ことマルチェロ・パソッティはエンナ市カップで優勝を果たしている。

ディーノ 206 S - 1966年世界スポーツカー選手権 主要リザルトドライバー結果(総合)結果(クラス)備考
セブリング12時間スカルフィオッティ / バンディーニ5位2位 (P 2.0L)デビューレースで好成績を記録
タルガ・フローリオギシェ / バゲッティ2位1位 (P 2.0L)卓越したハンドリング性能を証明
ニュルブルクリンク1000kmスカルフィオッティ / バンディーニ2位1位 (P 2.0L)シーズンの最高成績。シャシー性能を誇示
ロドリゲス / ギンサー3位2位 (P 2.0L)
ル・マン24時間全3台DNFDNF全車が序盤に機械的トラブルでリタイア

この戦績をまとめた表は、206 Sの物語を明確に示している。ホモロゲーションの失敗により、より大きなプロトタイプと総合優勝を争うことは稀であったが、自らのクラス(プロトタイプ2.0リッター)においては、しばしば圧倒的な強さを見せた。この事実は、このマシンが「ジャイアントキラー」としてのポテンシャルを秘めていたことを示唆しており、その戦歴に悲劇的な魅力を加えている。

不朽の遺産:レーシングプロトタイプから自動車の象徴へ

最後に、これまでの情報を統合し、206 Sが後世に与えた絶大かつ永続的な影響を考察する。その血統が如何にして象徴的なロードカーへと受け継がれ、その心臓部であるエンジンが新たな伝説を生み出し、自動車産業の歴史において重要なファクターとなったのかを解き明かす。

市販ディーノの始祖

206 Sが遺した最も重要な遺産は、自動車史に残る傑作、ディーノ 206 GTおよび246 GT/GTSロードカーの直接的な遺伝的・様式的祖先としての役割である。206 Sは、ミッドシップV6というパッケージの有効性をサーキットで証明した。そしてピニンファリーナは、アルド・ブロヴァローネのデザインビジョンに導かれ、レーサーの攻撃的なスタンスとプロポーションを、史上最も美しいロードカーの一つと称される姿へと見事に昇華させた。
市販モデルのディーノ 206 GTは、レーサーと同じ2280 mmのホイールベースと、オールアルミ製の2.0リッターV6エンジンを共有しており、両者の直接的な繋がりは明白であるfn6. 後の246 GTでは、コストを抑えた量産化のために、ボディはスチール製に、エンジンブロックは鋳鉄製へと変更されたが、その魂は紛れもなく206 Sから受け継がれたものであった。

フェラーリのミッドシップの未来を切り拓く

エンツォ・フェラーリは、ミッドシップレイアウトはプロのレーサー以外にはあまりにも扱いにくいと考え、市販モデルへの採用に長年ためらいを見せていたことで有名である。ディーノ206/246 GTは、当初フェラーリとは別の「ディーノ」ブランドとして販売され、この新しいレイアウトに対する市場の反応を見るための試金石として機能した。
その結果は、商業的にも批評的にも大成功であった。この成功はエンツォの懐疑心を打ち砕き、ミッドシップ・スポーツカーに対する強い市場が存在することを証明した。これは、ディーノの後継モデルである308 GTBから、F40、そして現代のモデルに至るまで、フェラーリのV8ミッドシップ・スーパーカーの全血統への道を切り拓いたのである。その意味で、206 Sは現代フェラーリ・スーパーカーの精神的な祖先と言える。

エンジンの伝説的な第二幕

悲劇から生まれ、フィアットとの提携によってホモロゲーションを得たディーノV6エンジンは、206 Sやディーノ・ロードカーの枠を遥かに超えて、その生命を永らえた。その最も有名な第二の人生は、ランチア・ストラトスHFへの搭載である。このマシンは1970年代半ばの世界ラリー選手権を席巻し、伝説となった。堅牢でパワフル、そしてコンパクトなディーノV6は、このラリーの怪物にとって完璧な心臓部であった。この事実は、ディーノV6エンジンがその時代の最も偉大なパワーユニットの一つであったことを確固たるものにしている。

キーストーンとしての206 S

206 Sの影響力は、そのわずかな生産台数とは不釣り合いなほど大きい。それはフェラーリの進化における「キーストーン種(生態系において重要な役割を果たす種)」として機能した。この車の存在と、それを取り巻く困難が、直接的または間接的に、会社の未来を決定づけるいくつかの重要な発展を引き起こしたのである。まず、ディーノのビジョンから生まれたエンジンは「ディーノ」というサブブランドを創設した。次に、このエンジンをレースで使用する必要性から、フィアットとの画期的な提携が生まれ、フェラーリの産業モデルが根本的に変化した。そして、206 Sレーサーは、フェラーリ初のミッドシップ市販車である206 GTの機械的・精神的基盤を提供した。そのディーノGTの成功が、エンツォのミッドシップへの抵抗を打ち破り、308 GTB以降の、フェラーリで最も人気があり収益性の高いモデル群への扉を開いた。最後に、フィアットで生産されたエンジンは、ランチア・ストラトスという別のイタリアンブランドの世界を制覇するラリーカーに第二の生命を見出し、その遺産をフェラーリの枠を超えて広げた。
歴史からこの一台、206 Sを取り除けば、この連鎖反応は断ち切られてしまう。フィアットとの取引は、形を変えるか、あるいは遅れていたかもしれない。フェラーリにおけるミッドシップ・ロードカー革命は遅延したか、あるいは全く起こらなかった可能性すらある。ランチア・ストラトスは我々が知る姿では存在しなかっただろう。したがって、206 Sは単に影響力のある車ではなく、その衝撃が数十年にわたる自動車史全体に波及する、極めて重要な「キーストーン」モデルなのである。

English Description

The Story of Dino

Dino is a brand that Enzo Ferrari dedicated to his beloved son, Alfredo. The story begins with the V6 engine developed alongside Vittorio Jano.

This V6 engine was refined in the Dino 206 S, a prototype racing car that debuted in 1966. Unlike the production model, the engine was mounted longitudinally. It is said that three Berlinettas and thirteen Spyders of this model were produced.

The engine, which had shown remarkable performance in the F2 class, needed to be mass-produced to comply with new regulations that would take effect from the following year, 1967. However, Ferrari at the time did not have the large-scale production facilities required.

This led to a partnership with Fiat, which had a shared interest, and the birth of the production model "Dino." Fiat also produced models such as the Dino Spider, allowing both companies to meet the required engine production numbers and enabling them to participate in races.

中文說明 (Traditional Chinese)

Dino的傳奇

Dino 是 Enzo Ferrari 為了紀念他摯愛的兒子 Alfredo 所創立的品牌。這個故事始於他與 Vittorio Jano 共同開發的 V6 引擎。

這款 V6 引擎在 1966 年問世的 Dino 206 S 原型賽車中得到了驗證和改良。與市售版本不同,這款賽車的引擎採用了縱向配置。據說,這個型號共生產了三輛 Berlinetta 和十三輛 Spyder。

這具引擎在 F2 賽事中表現出色,然而,為了符合隔年(1967年)即將實施的新賽事規範,必須達到一定的量產數量。然而,當時的 Ferrari 並沒有大規模的生產線。

因此,他們與理念相合的 Fiat 建立了合作關係,催生了市售版的「Dino」。Fiat 也生產了 Dino Spyder 等車型,雙方共同達到了引擎的最低產量要求,最終成功讓車輛得以參賽。