四国自動車博物館

365GTB/4 "DAYTONA"COMPETITION

Purosangue Brado(野生のサラブレッド):フェラーリ 365 GTB/4 "デイトナ" コンペティション

変革の時代における反骨の咆哮
1960年代末、スポーツカーレースの世界は技術的、そして規則的な大変革の渦中にあった。ロードカーの世界ではランボルギーニ・ミウラが、レース界ではフォードGT40などがミッドシップレイアウトの優位性を確立し、エンジンを車体中央に搭載することが高性能の代名詞となりつつあった。この大きな潮流に対し、フェラーリは敢えて伝統的なフロントエンジン・レイアウトを堅持したグランツーリスモ(GT)、365 GTB/4を発表する。それは、マラネッロの確固たる哲学を示す、力強い反骨の声明であった。

I. ロードカーからレーサーへ:コンペティションの創生

1.1. "デイトナ":その名と姿に宿る伝説

フェラーリ 365 GTB/4が初めて公の場に姿を現したのは、1968年のパリ・モーターショーであった。そのスタイリングは、ピニンファリーナのレオナルド・フィオラヴァンティが手掛けた、鋭角的なウェッジシェイプが特徴であり、前任モデルである275 GTB/4の流麗な曲線美とは一線を画す、ラディカルなものであった。
このモデルの公式名称に「デイトナ」の名は含まれていない。この非公式な愛称は、1967年のデイトナ24時間レースにおいて、フェラーリのプロトタイプレーサーである330 P3/4およびP4が1-2-3フィニッシュという歴史的快挙を成し遂げたことを記念し、メディアによって与えられたものである。
市販モデルの心臓部には、排気量4,390ccのティーポ251型V型12気筒エンジンが搭載された。6基のウェーバーキャブレターを備え、最高出力352馬力を発生、最高速度は280km/hに達し、当時のフェラーリ市販車として最速を誇った。特筆すべきは、5速マニュアルトランスミッションを後輪車軸上に配置するトランスアクスル方式を採用した点である。これにより、フロントエンジンながら理想的な前後重量配分を実現し、卓越したハンドリングバランスをもたらした。この365 GTB/4は、1969年のフィアットによる経営参加直前に発表された最後の12気筒フェラーリであり、その点でも歴史的な節目に位置するモデルである。

1.2. Clienti(顧客)のための武器:コンペティションの誕生

1970年代初頭、フェラーリの経営資源はF1世界選手権へと大きく傾斜し、1973年を最後にスポーツカープロトタイプでのワークス活動は休止された。この戦略的転換は、長年にわたりフェラーリでレース活動を行ってきた有力なプライベーターたちに、競争力のあるGTレーシングカーを渇望させる状況を生み出した。
この需要に応える形で誕生したのが、365 GTB/4 "デイトナ" コンペティションである。これらのマシンは、スクーデリア・フェラーリ(ワークスレーシングチーム)ではなく、顧客への技術支援やレース用車両の製作を担う「アシステンツァ・クリエンティ(Assistenza Clienti)」部門によって製作された。これは250 GTOや275 GTB/Cといった、顧客向けに少数が生産された伝説的なGTレーサーの系譜を継ぐものであった。
その希少性は際立っており、1971年から1973年にかけて、ファクトリーで製作されたコンペティション仕様はわずか15台に過ぎない。これは約1,400台が生産されたロードカーと比較すると、その特別な位置づけが理解できる。さらに、N.A.R.T.(ノース・アメリカン・レーシング・チーム)などの有力チームのために、工場公認で改造された車両が8台存在したことも記録されている。これらの事実は、デイトナ・コンペティションが単なる市販車の改造版ではなく、フェラーリのGTレースにおける栄光を、信頼できる顧客の手に委ねるという戦略的判断の下に生み出された、特別な存在であったことを物語っている。

1.3. 3つのシリーズ:鋼とアルミによる進化の軌跡

デイトナ・コンペティションは、3年間にわたり3つのシリーズで生産され、その仕様は段階的に進化を遂げた。
シリーズI(1971年):最初の5台は、軽量化を最大限に追求し、ボディ全体がアルミニウムで製作されたのが最大の特徴である。空力性能向上のため、ロードカーのバンパーは取り外され、フロントには小型のチンスポイラー、そして高速安定性を高めるための小さな垂直フィンがフロントフェンダー上に追加された。
シリーズII(1972年):続く5台は、主要構造部をスチール製ボディへと変更した。これはおそらく生産効率とコスト、そして耐久性を考慮した判断であろう。ただし、ボンネット、トランクリッド、ドアはロードカー同様にアルミニウム製とされた。このシリーズで最も顕著な変更点は、リアのホイールアーチが大幅に拡幅されたことである。これにより、さらにワイドなレーシングタイヤの装着が可能となり、コーナリング性能が向上した。
シリーズIII(1973年):最終シリーズの5台は、外観上はシリーズIIとほぼ共通だが、ドアパネルもスチール製に変更された。これは安全規則の強化に対応したものと考えられる。このシリーズは、エンジンチューニングやブレーキシステムなど、メカニズム面で最も熟成が進んでおり、コンペティションモデルの最終進化形として最高の性能を備えていた。

シリーズ生産年シャシーナンバーボディ構造主要な外観・空力特徴推定最高出力
I197114407, 14429, 14437, 14885, 14889オールアルミニウムフロントフェンダーフィン、小型チンスポイラー約430馬力
II197215225, 15373, 15667, 15681, 15685スチール(開閉部はアルミ)大幅に拡幅されたリアフェンダー約400馬力
III197316343, 16363, 16367, 16407, 16425スチール(ボンネット/トランクはアルミ)シリーズIIに準ずるが、ドアはスチール製約450馬力

II. 耐久王者の解剖学:技術的分析

2.1. 野獣の心臓:解き放たれたティーポ251型 V12エンジン

デイトナ・コンペティションの心臓部は、ロードカーと基本を共有する排気量4,390ccV型12気筒DOHCエンジン、ティーポ251型であった。このエンジンが持つ本質的な強みの一つが、275 GTB/4から受け継がれたドライサンプ潤滑方式である。これは、長時間の高G旋回が続く耐久レースにおいて、安定した油圧を維持するために不可欠なレーシングテクノロジーであった。
この強固な基盤の上に、アシステンツァ・クリエンティは段階的なチューニングを施していった。市販仕様の352馬力に対し、コンペティション仕様の出力は劇的に向上した。シリーズIで約430馬力、シリーズIIでは約400馬力(一部資料では出力が低下しているが、これは特定のレースのレギュレーションやセッティングに合わせた結果の可能性がある)、そして最終進化形であるシリーズIIIでは、ついに450馬力を8,500rpmという高回転で発生するに至った。
この出力向上を実現した要因は多岐にわたる。シリーズIIIでは、圧縮比が市販車の8.8:1から9.9:1へと高められた。さらに、専用設計の高圧縮ピストン、スチール削り出しのコンロッド、よりリフト量の大きいハイリフトカムシャフトが組み込まれた。吸気系には、フレッシュエアを強制的にエンジンに送り込む大型のラムエア式エアボックスが装着され、排気系は抵抗の少ないサイド出しの直管マフラーが採用された。また、高回転域での安定した燃料供給を確保するため、燃料ポンプはシリーズIIの2基から4基へと倍増された。これらの改良は、単なるパワーアップではなく、24時間という長丁場を戦い抜くための信頼性を伴った性能向上であった。

2.2. 信頼性の礎:シャシーとドライブトレイン

デイトナ・コンペティションの成功を支えたもう一つの柱は、そのシャシーの堅牢性であった。基本骨格には、ロードカーと共通のティーポ605と呼ばれる大径の楕円鋼管を用いたスペースフレーム構造が採用された。アシステンツァ・クリエンティは、全く新しい軽量シャシーを開発するのではなく、実績のある強靭なシャシーの要所を補強するという、堅実なアプローチを選択した。この判断が、後にデイトナ・コンペティションの伝説的な信頼性の源泉となる。
そして、このシャシーと並んで重要な役割を果たしたのが、5速トランスアクスル・レイアウトである。ギアボックスを車体後部に配置することで、フロントに重いV12エンジンを搭載しながらも、理想に近い前後重量配分を実現した。この優れたバランスは、高速コーナーにおける安定性、予測しやすいハンドリング特性、そしてタイヤ摩耗の均一化に大きく貢献し、長距離レースにおけるドライバーの負担軽減と一貫したラップタイムの維持を可能にした。
サスペンションは前後ともダブルウィッシュボーン式で、レース用に硬められたスプリングと強化されたショックアブソーバーが組み合わされた。ブレーキシステムも大幅に強化され、より肉厚なブレーキパッドに対応する大型キャリパーと、冷却性能を高めるための専用ダクトが装備された。これらの改良は、市販車の優れた素性を最大限に活かしつつ、耐久レースという過酷な環境に最適化させるという、明確な目的意識の下に行われたものであった。

2.3. スピードのための彫刻:軽量化と空力

コンペティションモデルの開発における中心的なテーマの一つが、徹底した軽量化であった。その最も純粋な表現が、ボディ全体をアルミニウムで製作したシリーズIである。シリーズII以降はスチールボディが基本となったものの、ボンネットやトランクリッドなどの開閉パネルにはアルミニウムが継続して使用された。さらに、サイドウィンドウなどを軽量なプレキシグラス(アクリル樹脂)に置換し、内装は快適装備をすべて取り払い、ロールケージとバケットシート、そして必要最低限の計器類のみが残されたスパルタンな仕様とされた。これらの努力により、車両乾燥重量は市販車の約1,280kgから、1,200kg台前半まで削減されたと記録されている。
空力性能に関しても、繊細かつ効果的な改良が施された。フロント下部にはリフトを低減するためのチンスポイラーが追加され、シリーズIでは高速走行時の直進安定性を高めるための小さな垂直フィンがフロントフェンダー上に設置された。シリーズII以降で採用された大きく張り出したホイールアーチは、単にワイドタイヤを収めるだけでなく、車体側面の気流を整える効果も持っていた。ロードカーではリトラクタブル式(初期型はプレキシグラスカバー付き固定式)であったヘッドライトは、レースでは信頼性と軽量化を重視して固定式ライトに変更されることが多かった。これらの改良は、デイトナの持つ筋肉質なフォルムを、より機能的で戦闘的なものへと昇華させた。
このマシンの技術的哲学は、「再発明」ではなく「最適化」にあったと言える。その成功は、ロードカーが元来持っていた強み、すなわちパワフルで信頼性の高いエンジンと、バランスの取れたシャシーを、レースという目的に向けて徹底的に磨き上げた結果であった。開発陣は、実験的で壊れやすい特殊な部品を多用するのではなく、既存のコンポーネントを強化・軽量化するという堅実な道を選んだ。この保守的とも言えるアプローチこそが、デイトナ・コンペティションに驚異的な完走率と信頼性をもたらした。より先進的で気難しいライバルたちが次々と脱落していく中で、「まず完走すること」という耐久レースの鉄則を忠実に守り抜く強さ、それこそがこのマシンの本質的な強みであった。

技術仕様365 GTB/4 (Stradale)365 GTB/4 コンペティション (シリーズIII)
エンジン形式ティーポ251、60∘ V型12気筒 DOHCティーポ251、60∘ V型12気筒 DOHC (レースチューン)
総排気量4,390.35cc4,390.35cc
最高出力352馬力 / 7,500rpm約450馬力 / 8,500rpm
圧縮比8.8:19.9:1
燃料供給ウェーバー 40 DCN20 キャブレター x6ウェーバー 40 DCN21 キャブレター x6、ラムエアボックス
シャシーティーポ605 鋼管スペースフレームティーポ605 鋼管スペースフレーム(補強入り)
ボディパネルスチール(開閉部はアルミ)スチール(ボンネット/トランクはアルミ)、プレキシグラスウィンドウ
乾燥重量約1,280kg約1,240kg
ブレーキ4輪ベンチレーテッドディスク強化4輪ベンチレーテッドディスク、冷却ダクト
タイヤ215/70 VR 15フロント: 25×10x15, リア: 27×11×15 レーシングタイヤ

III. 耐久レースの舞台:栄光の戦歴

3.1. ケーススタディ I:1972年ル・マン24時間レース - 圧倒的な支配

1972年のル・マン24時間レースは、デイトナ・コンペティションの伝説が確立された、極めて重要な一戦であった。この年、フェラーリのワークスチームは、すでにスポーツカー世界選手権のタイトルを確定させていたことから、312PBプロトタイプの参戦を見送った。これにより、総合優勝争いはフランスの地元チーム、マトラに委ねられる一方、GTクラスの戦いが大きな注目を集めることとなった。
この好機を捉え、フェラーリ系の有力プライベーターたちが大挙してデイトナ・コンペティションを投入した。シャルル・ポッツィ(フランス)、N.A.R.T.(北米)、エキュリー・フランコルシャン(ベルギー)、スクーデリア・フィリピネッティ(スイス)といった、フェラーリと縁の深い名門チームが送り込んだデイトナは、合計9台に上った。
レースが始まると、デイトナ勢はその圧倒的なポテンシャルを遺憾なく発揮した。結果は、GTクラスの1位から5位までを独占するという、まさに圧勝であった。総合でも5位から9位を占め、プロトタイプカーに次ぐポジションを確保した。クラス優勝を飾ったのは、シャルル・ポッツィがエントリーしたカーナンバー39、ジャン=クロード・アンドリューとクロード・バロー=レナ組のマシンで、3リッターのアルファロメオ製プロトタイプからわずか1周遅れという驚異的な走りを見せた。
ライバルとの性能差は歴然としていた。例えば、GTクラスのもう一方の雄であったシボレー・コルベットC3は、7リッターV8エンジンによる強大なパワーを誇ったが、24時間を走りきる信頼性においてデイトナに及ばなかった。事実、GTクラス5位のデイトナでさえ、クラス優勝したコルベットより22周も多く周回しており、その差は決定的であった。ポルシェ911 S/STは、軽量で俊敏なマシンであり、2.5リッター以下のGTクラスでは強さを見せたが、4.4リッターV12を搭載するデイトナのパワーとトップスピードには対抗できず、直接の脅威とはならなかった。この1972年のル・マンは、デイトナ・コンペティションがGTクラスの絶対王者であることを満天下に示した、歴史的なレースとして記憶されている。

総合順位GTクラス順位カーNo.チームドライバー周回数
5位1位39Charles PozziJ.C. Andruet / C. Ballot-Léna306
6位2位74North American Racing TeamS. Posey / T. Adamowicz304
7位3位34Scuderia FilipinettiM. Parkes / J.L. Lafosse / J.J. Cochet302
8位4位36Ecurie FrancorchampsD. Bell / T. Pilette / R. Bond302
9位5位38North American Racing TeamF. Migault / M. Buchet297

3.2. ケーススタディ II:1979年デイトナ24時間レース - 老兵、最後の雄姿

1979年のデイトナ24時間レースは、デイトナ・コンペティションの物語における、最も劇的な一章である。この時、生産終了からすでに6年が経過したシャシーナンバー16407のデイトナは、ターボチャージャーを搭載した最新鋭のポルシェ935が席巻するグリッドに、時代遅れの「骨董品」として並んでいた。ドライバーの一人、ジョン・モートン自身が「ほとんどアンティークだった」と語るように、誰もがその活躍を予想していなかった。
レースは、典型的な消耗戦の様相を呈した。ハイブーストをかけたポルシェ935勢は圧倒的な速さを見せる一方で、そのエンジンは極めて脆弱であり、次々とメカニカルトラブルでリタイアしていった。対照的に、デイトナは絶対的なスピードでは劣るものの、そのV12エンジンは時計のように正確に、そして確実に走り続けた。
このレースには、悲劇的なドラマがあった。チームマネージャーのオットー・ジッパーがレース前夜に急逝したのである。チームは撤退も考えたが、ドライバーのジョン・モートンとトニー・アダモヴィッチは、ジッパーの追悼のためにレースを戦うことを決意。ボンネットに黒いテープを斜めに貼り、レースに臨んだ。レース中、デイトナはタイヤのキャンバー異常に見舞われ、長時間のピットストップを強いられる困難にも直面した。しかし、モートンとアダモヴィッチは、肉体的に過酷でステアリングも非常に重いこのマシンを巧みに操り、ライバルたちが脱落していく中で着実に順位を上げていった。
そして24時間後、信じられない光景が広がっていた。旧式のデイトナが、並みいる強豪を打ち破り、総合2位でチェッカーを受けたのである。これは同時にGTOクラスの優勝でもあった。この結果は、デイトナ・コンペティションが持つ本質的な強み、すなわち絶対的なスピードではなく、圧倒的なまでの耐久性と信頼性がいかに重要であるかを証明する、最後の、そして最も輝かしい雄姿であった。

3.3. 勝利の遺産:全記録

デイトナ・コンペティションの栄光は、これら二つの象徴的なレースに留まらない。その戦歴は、1970年代前半の耐久レースシーンにおける広範な成功によって彩られている。
ル・マンでのハットトリック:1972年の圧勝に続き、1973年、1974年とGTクラスで3連覇を達成し、サルト・サーキットにその名を刻んだ。
デイトナでの支配:その名を冠するサーキットでも強さを見せ、1973年、1975年、そして伝説となった1979年と、GTクラスで3度の優勝を記録している。
ツール・ド・フランス・オートモビル(1972年):サーキットレースと公道ラリーを組み合わせたこの過酷なイベントで、プロトタイプカーを抑えて総合優勝を飾った。これは、市販GTカーをベースとしたマシンがいかに高い総合性能と信頼性を備えていたかを証明する、特筆すべき快挙であった。
デイトナ・コンペティションの成功は、二つの異なる側面によって定義される。一つは、1972年のル・マンのように、自らが属するクラス内での「支配」である。そしてもう一つは、1979年のデイトナのように、より上位のクラスのライバルが脱落する中で、その信頼性を武器に総合上位を狙う「好機主義」である。この二重の能力こそが、限られたリソースで戦うプライベーターにとって、このマシンを比類なき魅力的な武器たらしめたのである。

レース結果チーム主要ドライバー
1972ル・マン24時間GTクラス優勝 (総合5位)Charles PozziJ.C. Andruet / C. Ballot-Léna
1972ツール・ド・フランス総合優勝Charles PozziJ.C. Andruet / "Biche"
1973デイトナ24時間GTクラス優勝N.A.R.T.F. Migault / M. Minter
1973ル・マン24時間GTクラス優勝 (総合6位)Ecurie FrancorchampsC. Ballot-Léna / V. Elford
1974ル・マン24時間GTクラス優勝 (総合5位)N.A.R.T.C. Grandet / D. Bardini
1975デイトナ24時間GTクラス優勝 (総合7位)Interscope RacingJ. Woodner / F. Phillips
1979デイトナ24時間GTクラス優勝 (総合2位)Modena Sports CarsJ. Morton / T. Adamowicz

IV. 競争環境:ライバルとレギュレーション

4.1. 完璧な嵐:レギュレーションがもたらした好機

デイトナ・コンペティションの成功を語る上で、当時のレースレギュレーションの変遷を理解することは不可欠である。1972年、国際自動車連盟(FIA)はスポーツカーレースの規則を大幅に改定した。これにより、それまでトップカテゴリーを支配していたポルシェ917やフェラーリ512S/Mといった、排気量5リッターのグループ5スポーツカーが世界選手権から締め出されたのである。
この変革は、レース界に新たな階層構造を生み出した。総合優勝を争うのは、マトラMS670、フェラーリ312PB、アルファロメオ33TT3に代表される、排気量3リッターのグループ5プロトタイプカーとなった。その一方で、市販車をベースとした改造GTカーのためのグループ4カテゴリーが、依然として重要な役割を担っていた。
デイトナは、このグループ4カテゴリーでホモロゲーション(公認)を取得した(ホモロゲーション番号633、1972年1月2日付)。これが、まさに「完璧な嵐」の到来であった。デイトナは、グループ4クラスを支配するのに十分なパワーと、しばしばトラブルに見舞われる上位の3リッタープロトタイプよりも高い信頼性を兼ね備えていた。その結果、クラス優勝のみならず、総合5位や6位といった高順位を頻繁に獲得するという、ユニークなポジションを確立したのである。デイトナの成功は、その設計の優秀さだけでなく、時代の好機を的確に捉えた結果でもあった。

4.2. 比較分析:ライバルとの力関係

デイトナ・コンペティションが戦った舞台には、数多くの強力なライバルが存在した。それぞれのマシンとの比較を通じて、デイトナの強みと弱みをより深く理解することができる。
クラス内ライバル:シボレー・コルベットC3 (L88)
コルベットは、7リッターという大排気量V8エンジンから生み出される圧倒的なパワー(レース仕様では600馬力以上とも言われる)と、直線での驚異的なトップスピードを武器としていた。しかし、その大パワーは信頼性の代償を伴うことが多く、24時間という長丁場では、よりバランスの取れたデイトナに軍配が上がることが多かった。1972年のル・マンの結果が、その典型的な例である。
クラス内ライバル:ポルシェ911 S/ST
911は、軽量な車体と俊敏なハンドリングを特徴とし、特にテクニカルなセクションで速さを見せた。1972年のル・マンに参戦した2.5リッターのS/T仕様は約270馬力を発生し、3リッター以下のGTクラスでは無類の強さを誇った。しかし、4.4リッターV12エンジンを搭載し400馬力以上を発生するデイトナと比較すると、絶対的なパワーで大きく劣っており、ル・マンの長いストレートでは勝負にならなかった。
時代を象徴する存在:ポルシェ917
917は、デイトナとは全く異なるカテゴリーに属する純粋なレーシングプロトタイプであった。1970年と1971年にル・マンを制したこのマシンは、600馬力を超えるパワーと超軽量な車体を持ち、当時のレース界の頂点に君臨していた。デイトナが917と直接選手権を争うことはなかったが、917の時代を終わらせた1972年のレギュレーション変更こそが、デイトナが活躍する舞台を整えたのである。917は、デイトナが生き延び、そして凌駕した時代の象徴であった。
設計思想のライバル:ランボルギーニ・ミウラ
公道におけるデイトナの最大のライバルであり、その開発の動機ともなったのがミウラである。ミウラは市販車として世界で初めてミッドシップV12エンジンを搭載した革命的なスーパーカーであったが、ランボルギーニが公式にレース活動を行うことはなかった。対照的に、フェラーリはデイトナをベースにコンペティション仕様を開発し、レースの舞台に送り出した。これにより、デイトナは公道とサーキットの両方で伝説を築き、ミウラとは異なる二重のレガシーを確立したのである。
デイトナ・コンペティションの成功は、絶対的な意味で「最強」の車であったからというよりも、1972年から1974年という特定の時代において「最適」な車であったからに他ならない。その設計思想は、当時のレギュレーションが求める要求と完璧に合致していた。それ以前の時代はポルシェ917のようなワークス製プロトタイプが支配し、それ以降の時代はポルシェ935のような、より先進的なシルエットフォーミュラが台頭した。デイトナが頂点に立ったのは、その間の、まさに「スイートスポット」と呼べる期間であった。この時期、伝統的で堅牢なエンジニアリングは、最先端だが信頼性に欠ける技術や、前後の時代を支配した純粋なパワーよりも、価値ある美徳だったのである。

V. プライベーターの精鋭部隊:勝利の立役者たち

5.1. 1970年代におけるプライベーター支援の実態

デイトナ・コンペティションの勝利は、ワークスチームであるスクーデリア・フェラーリの手によるものではなかった。しかし、それを走らせたチームは、単なるアマチュアの集団では決してなかった。N.A.R.T.、シャルル・ポッツィ、エキュリー・フランコルシャンといったチームは、それぞれが各国のフェラーリ正規輸入代理店であり、ファクトリーと深く、長年にわたる関係を築いていた。
これらのチームは、フェラーリの「アシステンツァ・クリエンティ」部門から、レース専用に製作されたマシンそのものの供給を受けていた。レース運営は各チームが独立して行っていたものの、パーツ供給や技術情報、ファクトリーでの準備作業など、ある程度の技術的支援があったと考えるのが自然である。これは、プライベーターの成功が、そのままフェラーリブランドの栄光に直結するという、共生的な関係に基づいていた。
この文脈における「プライベーター」という言葉は、極めてニュアンスに富んでいる。彼らは真の独立チームというよりは、むしろ「ファクトリー公認のサテライトチーム」と呼ぶべき存在であった。彼らの成功は、フェラーリが持つ強力なグローバル販売網を、競争力のある資産として活用するという戦略の証左でもあった。レース活動の運営コストとロジスティクスを信頼できるビジネスパートナーに委託し、その勝利によるマーケティング効果を享受する。これは、莫大な費用がかかるF1にファクトリーの資源を集中させながら、GTレースにおける支配的な地位を維持するための、極めて効率的な分散型レーシングモデルであった。

5.2. 主なプライベーター

デイトナ・コンペティションの伝説は、これらの卓越したチームリーダーとドライバーたちによって築かれた。
ノース・アメリカン・レーシング・チーム (N.A.R.T.)
ルイジ・キネッティが率いたアメリカの伝説的なチーム。_N.A.R.T._は、1969年に最初のプロトタイプをル・マンに持ち込んで以来、デイトナのレースキャリアを通じて中心的な役割を果たした。1979年のデイトナ24時間での総合2位という金字塔も、元_N.A.R.T._の車両によって達成されたものであり、その影響力は計り知れない。
シャルル・ポッツィ (フランス)
フランスのフェラーリ輸入代理店であり、デイトナの最も輝かしい勝利、すなわち1972年のル・マンGTクラス優勝を成し遂げたチーム。母国フランスでの成功は、チームとマシン双方にとって、極めて重要な瞬間であった。
エキュリー・フランコルシャン (ベルギー)
ジャック・スウォーターズが率いる、その鮮やかな黄色のレーシングカラーで知られるベルギーの名門チーム。彼らもまた、ル・マンをはじめとする主要な国際レースでデイトナを走らせた、ヨーロッパにおける重要なプレイヤーであった。
スクーデリア・フィリピネッティ (スイス)
1972年のル・マンでのGTクラス1-5位独占の一翼を担った、スイスの有力プライベートチーム。ヨーロッパの耐久レースシーンにおける、フェラーリの強力な布陣を形成した。

最後の偉大なフロントエンジンGTレーサー

これまで詳述してきたように、フェラーリ 365 GTB/4 "デイトナ" コンペティションは、まさに_Purosangue Brado_(プロサングエ・ブラード)「野生のサラブレッド」であった。その成功は、ワークスによる周到な計画ではなく、強靭な市販車の設計、特定のレギュレーションがもたらした好機、そして有力プライベーターたちの手腕という、複数の要因が奇跡的に結びついた結果であった。
その技術的本質は、革新ではなく最適化にあった。信頼性の高いV12エンジンとバランスの取れたシャシーという、ロードカーの美点を極限まで磨き上げることで、より先進的だが脆弱なライバルたちを凌駕する耐久性を手に入れた。1972年から1974年にかけてのレギュレーションは、このマシンのために用意されたかのような完璧な舞台となり、その強みを最大限に発揮させた。
そして、その栄光は、_N.A.R.T._やシャルル・ポッツィといった、ファクトリーと密接な関係を持つ「サテライトチーム」とも言うべきプライベーターたちの手によって築かれた。これは、フェラーリがGTレースにおける覇権を維持するために採用した、巧みで効率的な戦略の成功例でもあった。
デイトナ・コンペティションは、250 GTOや275 GTB/Cに連なる、フェラーリの偉大なフロントエンジンV12 GTレーサーの系譜における、最後の輝きであった。その後のフェラーリのトップレーサーはミッドシップへと移行し、このモデルは一つの時代の終わりを告げる存在となった。その存在は、「デイトナ」という非公式な愛称を、フェラーリの歴史の中で最も evocative(感情を呼び起こす)な名前の一つとして、永遠に刻みつけている


specification
全長 × 全幅 × 全高 4490×1780×1245mm 車両重量 1448kg
トレッド(F/R) 1490mm/1475mm ホイールベース 2400mm
エンジン V型(60度)12気筒DOHC 総排気量 4390 cc
最高出力 402HP/6000rpm トランスミッション 5段M/T
駆動方式 FR 生産台数 15台