四国自動車博物館

RS200

無冠の帝王:フォードRS200

グループBの悲劇の英雄

四国自動車博物館に静かに佇むフォードRS200。その流麗なフォルムは、比類なきパワーとスタビリティを内に秘めた、純粋なグループBラリーマシンの証である。しかし、その歴史は栄光ではなく、時が勝利を許さなかった悲運の物語として語り継がれている。RS200は、その時代が生んだ最も野心的な構想と崇高な設計思想を持ちながらも、自らが征服するために生まれた世界そのものによって運命を封じられた、ギリシャ悲劇の英雄にも似た存在である。

このマシンは、1980年代のWRC(世界ラリー選手権)を席巻した「グループB」という狂乱の時代の、フォードによる究極の回答であった。その開発には、モータースポーツの最高峰であるF1で培われた技術が惜しみなく注ぎ込まれた。しかし、その静かな姿とは裏腹に、RS200が戦う舞台は、ターボの咆哮とアンチラグシステムの炸裂音が響き渡る、荒々しい戦場であった。

フォードRS200は、悲劇と状況によってWRCでのキャリアを絶たれたにもかかわらず、グループBにおけるシャシーエンジニアリングの頂点を体現していた。そして、その後のラリークロスやヒルクライムといった異なる舞台での圧倒的な活躍は、世界選手権で果たされなかったポテンシャルの究極的な証明となった。

伝説のるつぼ - グループB革命

高性能ラリーマシンたちが次々と開発されたグループBの時代。フォードRS200を語る前に、まずその時代背景となるFIA(国際自動車連盟)の車両規定について触れねばならない。グループBとは、1982年に導入され、1983年までWRCの主導権を握っていたグループ4に代わってラリー界に登場したカテゴリーである。この規定の核心であり、技術革命の引き金となったのが、ホモロゲーション(公認取得)に必要な生産台数がわずか200台に緩和された点であった。グループ4時代と比較して生産義務台数が大幅に削減されたことで、メーカーは市販車の制約から解放され、マシンは一層コンペティション(競技)専用としての要素を強めることが可能となった。

この自由が、前例のない技術的な「軍拡競争」を誘発した。それまで耐久性が重視されていたラリーカーの設計思想は一変する。

軽量素材の採用: 鉄製のモノコックボディに代わり、ケブラー、カーボンファイバー、各種複合素材がボディパネルに積極的に用いられ、劇的な軽量化が図られた。

ミッドシップレイアウトの支配: 当初、アウディ・クワトロが先鞭をつけたフロントエンジンの4WDレイアウトは、すぐさま、より優れた重量バランスとトラクション性能を持つミッドシップエンジン方式に取って代わられた。これが勝利へのテンプレートとなった。

4WDの必須化: アウディのクワトロシステムがラリー界に持ち込んだ衝撃は絶大で、あらゆる路面で優位に立つためには4WDが不可欠であることを証明し、すべてのライバルメーカーが追随を余儀なくされた。

天文学的なパワー競争: ターボチャージャー技術の急激な進化により、エンジン出力はわずか数シーズンで300馬力から500馬力を超える領域へと爆発的に増大した。

フォードRS200の設計思想は、これらのトレンドに対する直接的な回答であった。ライバルたちが既存の市販モデルから発展させたのとは異なり、RS200はラリーで勝利することのみを目的とした「クリーンシート」からの完全な専用設計であった。ミッドシップ4WDという勝利の方程式を取り入れつつ、それを完成させるためにF1デザイナーのトニー・サウスゲートを招聘。シャシーにはアルミニウムハニカム構造のモノコックを採用し、比類なき剛性とドライバーの安全性を確保した。

そして、RS200を技術的に最も特徴づけたのが、ミッドシップに搭載されたエンジンと、トルクチューブを介してフロントに配置されたギアボックスという独創的な駆動レイアウトであった。これは複雑な構造であったが、マシンの前後重量配分を理想的な50:50に近づけるための、極めて優れた解決策であった。

しかし、この洗練された設計思想には代償が伴った。RS200の先進性、特にシャシーの剛性と理想的な重量配分へのこだわりは、結果として複雑さと重量の増加を招いた。理論上は最もバランスの取れたマシンであったが、そのデビュー時の車重は、より軽量さを追求したプジョーなどのライバルに対して不利に働いた。さらに、この複雑さが生産の遅れを招き、ホモロゲーション取得が遅延する一因ともなった。フォードが追求したエンジニアリングの完璧さは、最もバランスの取れたマシンを生み出す可能性を秘めていたが、同時に、すでに狂乱の渦中にあったパーティーへの最も遅れた参加者となる運命をも決定づけたのである。

時代の巨人たち - ライバルとの比較分析

RS200が打倒を目指したグループBには、すでに3つの強大な王者が君臨していた。ここでは、RS200が挑むはずだった巨人たちの技術的特性を比較分析する。

獅子の王:プジョー 205 ターボ16

プジョー205 T16の設計思想は、その天才的なシンプルさにあった。コンパクトな大衆車である205の外観を持ちながら、その中身は全くの別物。エンジンを横置きにミッドシップマウントし、小型で軽量な車体と組み合わせることで、驚異的な俊敏性を実現した。このマシンは、グループBのレギュレーションを最も巧みに、そして効率的に利用した傑作であった。

初期モデルから、さらなるパワーと巨大なエアロパーツをまとった「E2(エボリューション2)」へと進化を遂げ、その支配力を不動のものとした。1985年と1986年にマニュファクチャラーズとドライバーズの両タイトルを連覇し、グループBで最も成功したマシンとしてその名を刻んでいる。

双子の心臓を持つ怪物:ランチア デルタS4

ランチア デルタS4は、グループB時代において最も技術的に過激なマシンであった。その最大の特徴は、アバルトが開発した「ツインチャージャー」システムにある。これは、エンジンの低回転域ではスーパーチャージャーが過給を行い、ターボラグを完全に解消させ、高回転域では大型のターボチャージャーがその役割を引き継ぐという、驚くほど複雑かつ効果的なソリューションであった。

シャシーは、高張力鋼管で組まれたスペースフレーム構造であり、その上に軽量な複合素材のボディパネルを架装する純粋なレーシングカーの構成を取っていた。これにより、軽量化と高い修理性を両立している。1985年シーズンの最終戦でWRCデビューを飾ると、いきなり優勝。1986年シーズンのチャンピオン最有力候補として、その存在感を強烈にアピールした。

4WDの革新者:アウディ スポーツクワトロS1 E2

アウディは4WD革命の創始者であったが、そのコンセプトは1985年までに限界を迎えつつあった。市販車由来のフロントエンジンレイアウトは、ミッドシップのライバルたちに対して、本質的なノーズヘビーというハンドリングのハンディキャップを抱えていた。

最終進化形である「S1 E2」では、この弱点を克服するために極端な手段が講じられた。ホイールベースを大幅に短縮して回頭性を高め、車体の前後には巨大なウイングを追加して、空力によってマシンを路面に押さえつけようと試みた。その象徴的な直列5気筒ターボエンジンは、独特の恐ろしいサウンドと共に絶大なパワーを発生させた。しかし、その圧倒的なパワーにもかかわらず、バランスに優れたミッドシップ勢には及ばず、1985年シーズンのWRCでの勝利はわずか1回に留まった。

技術仕様比較表:グループBの巨人たち

以下の表は、グループB時代の頂点を極めた4台のマシンの技術的な違いを明確に示している。それぞれのメーカーが勝利のために選択した、異なるエンジニアリング哲学が一目でわかるだろう。

特徴フォード RS200プジョー 205 T16 E2ランチア デルタ S4アウディ スポーツクワトロ S1 E2
エンジンレイアウトミッドシップ・縦置きミッドシップ・横置きミッドシップ・縦置きフロントエンジン・縦置き
排気量1803cc1775cc1759cc2133cc
過給方式シングルターボシングルターボツインチャージャー(ターボ+スーパーチャージャー)シングルターボ
駆動方式フルタイム4WD(可変トルクスプリット)フルタイム4WD(ビスカスカップリング)フルタイム4WD(ビスカスカップリング)フルタイム4WD
シャシー構造アルミニウムハニカム・モノコックモノコック+リア鋼管フレーム鋼管スペースフレーム短縮スチールモノコック
推定出力(ラリー仕様)約450 bhp約450-540 bhp約480-550 bhp約500-550 bhp
主要な技術革新F1由来のシャシー、重量配分のためのフロントギアボックスコンパクト、軽量、俊敏な設計革新的なツインチャージャーシステム象徴的な5気筒エンジン、極端なエアロダイナミクス

舞台は整った - 1985年世界ラリー選手権

RS200がデビューを待つ間、1985年のWRCシーズンは、来るべき嵐の前の静けさではなく、嵐そのものの序章であった。

この年は、プジョー・タルボ・スポールがその技術を完成させたシーズンとして記憶されている。ドライバーのティモ・サロネンは、その冷静かつ安定したドライビングスタイルで205 T16を駆り、シーズン7勝を挙げてドライバーズチャンピオンに輝いた。プジョーはマニュファクチャラーズタイトルも難なく獲得し、その支配を確立した。

一方、前年の王者アウディは苦難のシーズンを送った。新型スポーツクワトロS1の圧倒的なパワーにもかかわらず、その扱いにくいハンドリングは熟練のドライバーたちを悩ませた。ヴァルター・ロールとスティグ・ブロンクビストというスター選手を擁しながらも、WRCでの勝利はサンレモ・ラリーでのわずか1勝に終わり、ミッドシップ勢に対する劣勢は明らかであった。

他のチームもまた、王座を虎視眈々と狙っていた。ランチアは旧式化した後輪駆動の037ラリーで奮闘し、ミキ・ビアシオンがポルトガルで表彰台を獲得。そしてシーズンのクライマックスとなった最終戦RACラリーでは、2台の新たな怪物が衝撃的なデビューを飾った。ヘンリ・トイボネンが駆るランチア・デルタS4がいきなり優勝し、さらにMG メトロ6R4も登場。1986年に向けて、競争が劇的にエスカレートすることを示唆した。

フォードは、このすべての展開を、RS200の生産とホモロゲーション取得の遅れに悩みながら、固唾をのんで見守っていた。RS200は、マルコム・ウィルソン(後のM-Sport代表)のドライブにより、英国国内選手権で非公式ながらデビューウィンを飾り、そのポテンシャルを証明したが、世界の舞台からは依然として遠い存在であった。

この1985年シーズンは、単に1986年の前哨戦であったわけではない。それは、後に続く悲劇の直接的な触媒となったシーズンであった。プジョーの絶対的な支配は、ランチアやフォードといったライバルメーカーに、一種の絶望的な競争心を生み出させた。ランチアの答えは過激なデルタS4であり、フォードの答えがRS200であった。特に、1985年末にデルタS4がデビューウィンで示したパフォーマンスの飛躍は、競争の目標ラインをあまりにも高く設定しすぎてしまった。これにより、1986年シーズン、すべてのチームは自らのマシンとドライバーを安全性の限界をはるかに超えてプッシュすることを強いられた。その結果、壊滅的な事故が起こることは、もはや可能性ではなく、避けられない運命となっていたのである。

果たされなかった夢 - 激動の1986年WRC

ホモロゲーション取得の問題により、RS200は1985年の最終戦RACラリーと1986年の開幕戦モンテカルロ・ラリーを欠場せざるを得なかった。そのWRCキャリアは、1986年の第2戦スウェディッシュ・ラリーでようやく幕を開けた。

デビュー戦は希望に満ちていた。カール・グランデルがRS200を3位に導き、初参戦でいきなり表彰台を獲得。このマシンが持つ本質的な競争力の高さを証明した。しかし、これがRS200にとってWRCでの最高位、そして最後の栄光となるとは、その時誰も予想していなかった。

ポルトガルの悲劇

次戦のラリー・ド・ポルトガルで、WRCの歴史を揺るがす悲劇が起こる。ポルトガルのステージは、観客のコントロールが極めて難しいことで知られていた。その最初のステージで、地元の英雄ヨアキム・サントスが駆るRS200がコントロールを失い、コース脇の観客の中に飛び込んでしまった。この事故で複数の観客が死亡し、多数の負傷者が出た。

この惨事を受け、フォードを含むトップワークスチームのドライバーたちは、危険な観客整理に抗議するため、イベントからの撤退を共同で決定。ラリーは事実上、競技としての意味を失った。この一件は、RS200の評価に不当な汚名を着せることになった。

コルシカでの最後の審判

グループBの運命を決定づけたのは、第5戦ツール・ド・コルスでの事故であった。この事故にRS200は関与していない。ランチアのエース、ヘンリ・トイボネンとコ・ドライバーのセルジオ・クレストが乗るデルタS4がコースを外れ、崖下に転落。マシンは爆発炎上し、二人は即死した。

FIAの対応は迅速かつ断固たるものであった。トイボネンの事故から数時間のうちに、1987年シーズンからのグループB車両の禁止が決定された。希望に満ちて始まったRS200のWRCキャリアは、わずか4戦のワークス参戦をもって、その幕を閉じることとなった。その戦績は、1度の表彰台と、悲劇によって定義づけられた伝説だけが残った。

野獣の二度目の咆哮 - RS200のポストグループBの伝説

WRCからの追放は、RS200にとって終わりではなく、新たな伝説の始まりであった。その真価が発揮される舞台は、ヨーロッパのラリークロスサーキットと、アメリカのパイクスピークであった。

新たな戦場:ラリークロス

RS200は、ヨーロッパのラリークロスに完璧に適応した。その驚異的に強固なシャシーは、短距離で激しい接触も厭わないスプリントレースの過酷な環境に耐え、最高速よりも爆発的な加速力が求められるこの競技で、そのポテンシャルを最大限に発揮した。

ここで、「エボリューション」モデルがその真価を発揮する。WRCのレギュレーションから解放されたコスワースBDTエンジンは、排気量を2.1リッターに拡大され、巨大なターボチャージャーが装着された。出力は600馬力、750馬力、あるいはそれ以上へと跳ね上がった。これらのマシンは、1980年代後半から90年代初頭にかけてのラリークロスシーンを席巻する支配的な力となった。特に、エボリューションモデルが記録した0-60mph(約96.5km/h)加速3.07秒というタイムは、12年間にわたってギネス世界記録として認定されたほどであった。

アメリカでの挑戦:パイクスピーク

RS200のもう一つの活躍の場は、伝説的な「雲へ向かうレース」、パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムであった。このイベントのために、RS200は極端なエアロダイナミクスと、900馬力を超えるさらに強力なエンジンで武装された。

元世界チャンピオンのスティグ・ブロンクビストが2004年にアンリミテッドクラスで優勝したほか、マーク・レニソンやリアム・ドランといったドライバーたちが駆る過激なマシンは、この世界で最も過酷なステージで、RS200のシャシーとエンジンコンセプトが持つ究極の性能ポテンシャルを証明した。

FIAによるグループBの禁止という決定は、RS200を本来の目的においては時代遅れの存在としたが、皮肉にもそのことが、このマシンを究極の姿へと「解放」した。WRCのステージの長さ、信頼性への懸念、ホモロゲーション規則といった制約が取り払われたことで、エンジニアたちは純粋に最大限のパフォーマンスを追求することができた。ラリークロスとパイクスピークでの成功は、単なる残念賞ではない。それは、WRCのレギュレーションと早すぎる終焉によって封じ込められていた、RS200の本来のポテンシャルを決定的に証明するものであった。

「もしも」の伝説

フォードRS200の物語を振り返ると、それはフォードの野心から生まれた、計り知れない技術的洗練性を備えたマシンが、悲劇的に終わるパーティーに遅れて到着した、という一幕のドラマである。

そしてその物語は、グループBにおける「もしも」という想像を我々に搔き立てる。その優れたバランスとシャシーを持つ完全に開発されたRS200エボリューションが、もし1987年のフルシーズンを戦っていたとしたら、プジョーやランチアを打ち負かすことができたのだろうか。WRC後のキャリアが示す圧倒的な証拠は、それが世界チャンピオンになり得たことを夢想させるに十分だ。

当館に佇むRS200に再び目を向けよう。

それは失敗作としてではなく、比類なき野心と革新の時代への記念碑としてそこにある。世界のラリーステージでは果たされなかった勝利の夢を、ラリークロスの過酷なトラックとパイクスピークの危険な坂道で、証明した静かなる証人でもある。そして今もなお、グループBの「無冠の帝王」として、我々の前に存在し続けている。


The Uncrowned King: Ford RS200

The Ford RS200 is a tragic hero of the Group B rallying era, a time known for its untamed madness. Designed with no expense spared, incorporating technology from Formula 1, this machine was built to conquer the WRC (World Rally Championship). It featured an ideal mid-engine, four-wheel-drive layout and an innovative front-mounted gearbox to achieve perfect weight distribution. However, this pursuit of perfection led to production delays, and the RS200 finally made its WRC debut in the 1986 season.

Despite showing its high potential with a third-place finish in its debut, the RS200's reputation was unjustly tarnished by a subsequent major accident in Portugal. The fatal crash of a Lancia Delta S4 at the Tour de Corse shortly after led the FIA to ban Group B vehicles immediately, bringing the RS200's WRC career to a close after just four races.

Yet, its story did not end with the WRC. Freed from WRC regulations, the RS200 showcased its true potential in new arenas like rallycross and Pikes Peak. The "Evolution" model, with an enlarged engine displacement, generated a massive 600 to over 900 horsepower, dominating the rallycross scene. Its incredible 0-60 mph acceleration time of 3.07 seconds was even certified as a Guinness World Record.

Though it remained uncrowned in the WRC, the RS200 was no failure. Instead, the end of the Group B era paradoxically gave it the chance to prove its true potential. The machine displayed at the Shikoku Automobile Museum stands as a quiet "uncrowned king," a testament to an unfulfilled dream in rallying that went on to achieve legendary success in rallycross and hill climbs.

無冕之王:福特RS200

福特RS200是Group B拉力賽時代的悲情英雄,那個時代以其瘋狂而聞名。這輛車的設計不惜成本,融入了F1技術,旨在征服WRC(世界拉力錦標賽)。它採用了理想的中置引擎、四輪驅動佈局,以及創新的前置變速箱,以實現完美的重量分配。然而,對完美的追求導致了生產延誤,RS200直到1986年賽季才得以在WRC中首次亮相。

儘管在首秀中獲得第三名,展現了其潛力,但隨後在葡萄牙發生的一場重大事故,讓RS200的聲譽無端蒙上污點。緊接著,一輛藍旗亞Delta S4在環科西嘉島拉力賽中發生致命事故,促使FIA立即禁止了Group B賽車,RS200的WRC生涯在短短四場比賽後畫上了句號。

然而,它的故事並未在WRC中結束。擺脫WRC法規束縛的RS200,在拉力賽和派克峰等新賽場上展現了其真正的價值。尤其是排氣量擴大的「Evolution」車型,能產生600至900多馬力,席捲了拉力賽場。其驚人的0-60英里/小時(約96.5公里/小時)加速時間3.07秒,甚至被列入金氏世界紀錄。

儘管RS200在WRC中無緣冠軍,但它並非失敗之作。相反,Group B時代的結束,諷刺地賦予了它證明真正潛力的機會。這輛陳列在四國自動車博物館中的賽車,作為一位安靜的「無冕之王」而存在,它背負著在拉力賽中未完成的夢想,卻在拉力賽和爬坡賽中取得了傳奇般的成功。

specification
エンジン 直列4気筒DOHC 排気量 1,804cc
最大馬力 250hp / 8,500rpm 最大トルク 19.8kg-m / 4,500rpm
乾燥重量 1,180kg 生産台数 200台